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ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)

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This podcast has
66 episodes
Language
Japanese
Publisher
yamamoyama
Explicit
No
Date created
2018/07/30
Latest episode
2026/10/03
Average duration
27 min.
Release period
11 days

Description

ブログ安心問答(浄土真宗の信心について)の音声版です。浄土真宗の教え、信心、その他についていろいろと話をするpodcastです。

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#066「南無阿弥陀仏と念仏することによって自動的に「弥陀をたのむ」ことになるのでしょうか?」について
2026/10/03
○マシュマロに頂いた質問について話をしました。 -- 「浄土真宗ではよく「弥陀をたのめ」とお聞きしますが、いるかいないかさえわからない阿弥陀仏をたのむなど雲をつかむような話としか聞けません。しかし阿弥陀仏がよくわからなくても、南無阿弥陀仏と念仏することによって自動的に「弥陀をたのむ」ことになるのでしょうか。」(マシュマロ) -- マシュマロに以下のように書きました。 -- いるかいないか分からないしか思えない私に対して、「南無阿弥陀仏」という声に称えられる形になったのが阿弥陀仏です。 南無阿弥陀仏と念仏する時に、出てくる声が阿弥陀仏です。「弥陀をたのめ」とは、その南無阿弥陀仏をたのむということです。 -- これに加えて話をしました。 --- ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ [email protected] X(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠
#065「南無阿弥陀仏をたのむ」には、南無阿弥陀仏と口に出して言うだけでいいのでしょうか?」(頂いた質問)
2026/09/09
今回は「南無阿弥陀仏をたのむ」には、南無阿弥陀仏と口に出して言うだけでいいのでしょうか?」(頂いた質問)について話をしました。 --- ⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ [email protected] X(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠
#064「聞其名号」とは、自分が想像し、理想とする南無阿弥陀仏を聞こうとすることではなく、今となえ聞こえてくる南無阿弥陀仏をその通りに聞くということでしょうか。(頂いた質問)
2026/08/25
今回は以下の質問について話をしました。 --- 「聞其名号」とは、自分が想像し、理想とする南無阿弥陀仏を聞こうとすることではなく、今となえ聞こえてくる南無阿弥陀仏をその通りに聞くということでしょうか。(頂いた質問) --- 話の中で出たご文 ○教行信証信文類 しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(浄土真宗聖典註釈版P251) ○正像末和讃 (38) 如来の作願をたづぬれば  苦悩の有情をすてずして  回向を首としたまひて  大悲心をば成就せり(浄土真宗聖典註釈版P606) --- ⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ [email protected] X(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠
#063「仏に成るとは、私が、阿弥陀仏と一体となり、南無阿弥陀仏の名号になることなのでしょうか?」(頂いた質問)
2026/08/08
○質問 -- 「南無阿弥陀仏ひとつで私が極楽浄土に生まれ、仏に成る」ことは、本当は、とてつもない話なんだと想像しますが、私の知恵では、仏に成ることの尊さが実感できません。 仏に成るとは、どういうことかも分かりません。 仏に成るとは、私が、阿弥陀仏と一体となり、南無阿弥陀仏の名号になることなのでしょうか? 阿弥陀仏の悟りの境地(世界)は、真如であるから、色も形もないと聞いたことがあるのですが、 この私が阿弥陀仏に救われたら、弥陀同体の仏さまに成らせていただき、還相回向で、また娑婆世界に戻り、身近な人を救うことができると聞いたことがありますが、 仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし、と本願をそのまま疑いなく聞けるようになると、私が浄土往生して仏に成ることだけではなく、仏に成ったら、すぐに、また娑婆世界に戻り、苦しみ迷う衆生を自由自在に救うことができることに対しても(還相回向)、疑いなく聞けるようになるのでしょうか? -- 話のなかで出たご文 ○唯信鈔文意 法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。(浄土真宗聖典註釈版P710) ○教行信証証巻  一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。(浄土真宗聖典註釈版・P321) --- ⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ [email protected] X(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠
#062「信心獲得すると、「弥陀の本願まこと」と、阿弥陀仏の本願が、歴史的な事実(真実)であると、疑いなく受け入れることができるのでしょうか?」(頂いた質問)
2026/07/28
○今回は以下の質問について話をしました。 ーーー 第61回目のネットラジオ版安心問答を聞かせていただき、仏願の生起本末を聞いて、その本願に疑いが無くなっても、その本願の内容の詳細までは、人間の知恵では分からずに、ただ、「南無阿弥陀仏ひとつで救われる」「念仏ひとつで浄土往生できて仏に成れる」ということが分かる程度であることが知らされました。 そこで重ねてお尋ねがあります。 歎異抄第二章に、以下の文言がありますが、信心獲得すると、「弥陀の本願まこと」と、阿弥陀仏の本願が、歴史的な事実(真実)であると、疑いなく受け入れることができるのでしょうか? この歎異抄第二章に書いてある内容について、ネットラジオ版安心問答でお話をしていただけると、ありがたいです。 よろしくお願いします。 弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかるべからず候か」    (歎異抄二章) ーー ○話のなかで出たご文 「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(教行信証信巻) 信心の智慧(左訓)弥陀の誓いは智慧にてましますゆえに信ずる心のいでくるは智慧のおこるとしるべし(表記・漢字仮名遣いを現代に変更)(正像末和讃) --- ⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ [email protected] X(⁠⁠⁠⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠
#061 「本願を疑惑するのと、本願の内容の意味が分からないのは、同じなのでしょうか?」(頂いた質問)
2026/07/17
○今回は以下の質問について話をしました。 --- 浄土真宗の信心は、「仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし」ですが、 私には、仏願の生起である、「無常」や「罪悪」が分からず、煩悩悪業によって、流転輪廻していることも分からず、また「後生の一大事」と聞いても、驚きも立たずに、何とも思いません。 また、阿弥陀仏が私一人を救うために、五劫思惟の願や、兆載永劫の行をされて、私を救うための手段として「南無阿弥陀仏」が完成されて(仏願の本)、その本願の名号である「南無阿弥陀仏(念仏の信心)ひとつで救われる」(仏願の末)と聞いても、意味が分からないのですが、これらのことは、本願を疑惑していることになるのでしょうか? 私は、本願を疑惑するというよりも、仏願の生起本末の内容の意味が分からないのです。 本願を疑惑するのと、本願の内容の意味が分からないのは、同じなのでしょうか? また、本願疑惑心が無くなると、仏願の生起本末の内容の全てに対して、塵露ほどの疑いも無くなるのでしょうか? --- ○話の中で出した御文 ここをもつて、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀してこれを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし」(教行信証信巻・浄土真宗聖典註釈版P296) --- ⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ [email protected] X(⁠⁠⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠
#060 「本願疑惑心や疑情(疑心)や自力心は、煩悩の一種なのか?」(頂いた質問)
2026/07/11
今回は#059を聞かれた方からの質問です。 ○質問 --- 第59回目を聞いて、「阿弥陀仏の本願と私の関係性が非常に大切」だということは理解できたのですが、本願疑惑心や疑情や自力心が、煩悩だということを聞いて、不審に思いました。 それというのも、親鸞聖人は、以下の文証のように、凡夫の煩悩は死ねまで無くならないと言われているからです。 阿弥陀仏の本願の救いと、煩悩は関係がないと思っていましたが、本願疑惑心や疑情や自力心が、煩悩であるならば、本願疑惑心や疑情や自力心も死ねまで無くならないということになりませんか? 浄土真宗の信心は、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」ではないのですか? この疑心が煩悩であるならば、疑心は死ぬまで無くならないことになりませんか? 疑心往生説は、異安心だと聞いたことがあるので、 本願疑惑心や疑情(疑心)や自力心は、煩悩の一種なのか?について、お聖教を根拠にして、ネットラジオ版安心問答でお話を聞かせていただきたいです。 よろしくお願いします。 「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。(一念多念証文)P693 -- ○話のなかで出したご文 ○教行信証信巻 ○【65】 しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(浄土真宗聖典註釈版P251) ○まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。(教行信証信巻・浄土真宗聖典註釈版P230) ○【28】 次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典註釈版P234) ○教行信証化土巻 ○そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんの因なんの縁にか、かの国の人民、胎生・化生なる〉と。仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、このゆゑにかの国土、これを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに。その胎生のものはみな智慧なし〉。{乃至}(浄土真宗聖典註釈版P377) --- ⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ [email protected] X(⁠⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠⁠⁠
#059「「煩悩成就の凡夫(私)」に、何故、煩悩以外の心(ここでは疑情)があるのか?」(頂いた質問)
2026/07/04
今回は第58回目を聞かれた方から頂いた質問について話をしました。 以下、質問メール --- 第58回目を聞いて、浄土真宗では、あまり「自覚(ハッキリした)」という言葉は使わずに、「聞いた」とか「知らされた」という言葉を使うことが分かりました。 また、浄土真宗では「阿頼耶識」ということは問題にせずに、「煩悩成就の凡夫」が、阿弥陀仏の本願力によって、信心と念仏を回向され、極楽浄土に往生することが分かりました。 そうすると、「変わり続ける私のいのち」というのは、「煩悩成就の凡夫」のことなのでしょうか? また、煩悩しかない私の心に、本願疑惑心(自力の心)があるのは、何故なのでしょうか? 正信偈には、 「還来生死輪転家 決以疑情為所止」とありますが、この「疑情」とは、阿弥陀仏の本願を疑う心のことだと思いますが、この「疑情」は、私の心でははく、煩悩以外の他の何か?なのでしょうか? 今回は、「煩悩成就の凡夫(私)」に、何故、煩悩以外の心(ここでは疑情)があるのか? また、生死輪転を繰り返している根本原因は、何故、「無明煩悩」ではなく、「疑情(本願疑惑心)」なのか? について、詳しく知りたいです。 --- 話の中で出た根拠 ○浄土真宗辞典より 疑情 疑いの心のこと。親鸞は阿弥陀仏の本願を疑い自らはからう心とする。「正信偈」には「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす」(註207)とある。→自力心 自力心 行者自身のはからい。自力によって浄土に往生しようとすることで、これを親鸞は阿弥陀仏の本願を疑う心とした。 --- 安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ [email protected] X(⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠⁠
#058「二種深信にあるように『曠劫よりこのかた』の過去世のことまで分かるようになるのですか?」について(頂いた質問)
2026/06/23
前回57回目を聞かれた方からの質問です。 ○質問 --- 私には、生まれる前のこと(始まりのない始まりから、生死輪廻を繰り返してきた過去世のこと)は、全く分かりませんが、 信心獲得すると、教行信証の信巻に書いてある「二種深信」のような、「一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。」ということが、ハッキリと自覚できるのでしょうか? もし、自覚できるとしたら、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」と、自身(私)が曠劫より生死輪廻を繰り返してきたことが分かるような文章の内容が書かれていますが、実際は、信心獲得すると、自分自身が生死を繰り返してきた過去世のことまで分かるのでしょうか? また、「自身」と書いてあるように、曠劫から迷いの世界を輪廻してきた「私」(汝)というものが、本当にあるのでしょうか? ちなみに、この「私」の意味は、私や他者が認識している私ではなくて、「永遠のいのち」(自己統一的主体)みたいなイメージです。 最後に、阿弥陀仏の本願は、「阿弥陀さまから見た私」を「只今救うぞ」と、前回のネットラジオでお話をされていましたが、「阿弥陀さまから見た私」を、この私が自覚することが、--本当にできるのでしょうか? --- ○質問 --- それは、「後生の一大事と信心獲得について」です。 信心獲得すると、一体、私の何がお浄土に生まれて仏に成るのか?について知りたいです。 私は、仏教の唯識で言われる「私の阿頼耶識」が、流転輪廻を繰り返していて、常に変わり続けながら、六道輪廻を抜け出せずに、迷い苦しんでいるのではないか?と考えています。 浄土真宗では、一体、私の何が、極楽浄土に生まれて成仏すると教えられているのか?について知りたいです。 --- 話の中で出たご文 ○教行信証信文類 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。 ○教行信証証文類 しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。 質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。 --- ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ [email protected] X(⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠
#057「阿弥陀仏は一体、私の何を救って下さるのか?」について(頂いた質問)
2026/06/12
以下の質問について話をしました。 ーーー (略) ここで、根本的なお尋ねがあるのですが、阿弥陀仏は、一体、私の何を救ってくださるのでしょうか? 私の肉体は、死んだら無になります。意識も無くなります。 仏教では、目に見えない「魂」や「霊魂」などの存在も認めないと聞いたことがあります。 では、一体、仏教は何を問題にして、生死輪廻を繰り返している私の正体(本体)は何であり、阿弥陀仏は、「只今私を救う」と仰っているけれども、一体私の何を救ってくださるのか?が分からないので、 今回は、一体、阿弥陀仏は、私の何を救ってくださるのか? 生死輪廻を繰り返している「この私」とは一体何者なのか? そもそも、仏教は何を問題にしているのか? について、ネットラジオ版安心問答でお話をしていただけると有り難いです。 よろしくお願いします。 ーーー ○話の中で出した話 ・慧能禅師のエピソード 「善を思わず、悪を思わず、正に恁麼の時、いかなるか是れ、明上座、父母未生前の本来の面目」 ・なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(二河白道の譬え) ---- 質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ [email protected] X(⁠⁠⁠@anjinmondou⁠⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠⁠
#056「教行信証の総序に書いてある「たまたま行信を獲る?」や「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい?」、親鸞聖人は、なぜ、「遠く宿善を慶べ」ではなく、「遠く宿縁
2026/06/06
今回は以下の質問について話をしました。 ーーーー 教行信証の総序に、「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に不蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。」 とありますが、 この「行信を獲る」のは、「たまたま」なのでしょうか?(私は、「たまたま」の意味を、偶然とか、運が良く、などの意味で考えています。) もし、「たまたま」が偶然とか、運が良く、などの意味であれば、宝くじに運が良く大当りしたみたいに、思えてしまいます。 また、「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい」のであれば、今生で阿弥陀仏に救われるのは無理なのかなぁ? と、心が折れ、あきらめの境地になってしまいます。 さらに、「遠く宿縁を慶べ」とありますが、これは、「宿善」ではなく、「宿縁」と親鸞聖人が書かれているのは、何か深い意味があるのでしょうか? これらの教行信証の総序に書いてある「たまたま行信を獲る?」や「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい?」、親鸞聖人は、なぜ、「遠く宿善を慶べ」ではなく、「遠く宿縁を慶べ」と言われたのか? について、ネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせていただきたいです。 ーーーー ○話にでたご文 穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。 たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行証文類・総序・P132) ○悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。(化身土文類・浄土真宗聖典註釈版P412) ---- 質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ [email protected] X(⁠⁠@anjinmondou⁠⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠⁠マシュマロ⁠⁠⁠
#055「阿弥陀仏の本願は、「ただ今救う」本願ですが、「ただ今救う」と今聞けていないのは、まだ、私の機が熟していないからでしょうか?」(頂いた質問)
2026/05/30
今回は以下の質問について話をしました。 ーー 第54回目を聞いて、阿弥陀仏の救済と「宿善」の関係については、「宿善」は阿弥陀仏の調育(調熟)の光明(智慧)のはたらきであり、一人一人違う未熟の機を調育して、本願を素直に疑い無く聞ける身に育ててくださることが分かりました。 しかし、そうすると、やはり阿弥陀仏の調育の光明によって、私の機が熟して、本願を疑い無く聞けるようになるには、機が熟すまでの時間がかかるように思えてしまいます。 阿弥陀仏の本願は、「ただ今救う」本願ですが、「ただ今救う」と今聞けていないのは、まだ、私の機が熟していないからでしょうか? また、阿弥陀仏の本願は、短命の者や無常迅速の機をお目当てにしていると聞いているのですが、もし機が熟さないと、信心獲得できないとしたら、臨終の者は、どうなってしまうのでしょうか? 口伝鈔に、以下の文言がありましたので、今回は、短命の根機(無常迅速の機)と阿弥陀仏の調育の光明の関係について、またネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせて頂きたいです。 よろしくお願いします。 ーー 話のなかで出たご文 ○そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。 そのゆゑは願(第十八願)成就の文(大経・下)には、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念 願生彼国 即得往生 住不退転」と説き(口伝鈔・浄土真宗聖典註釈版P911) ---- 質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ [email protected] X(⁠@anjinmondou⁠)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠⁠マシュマロ⁠⁠
#054「現世(今生)で救われる人と、来世(未来世)で救われる人が出てきてしまうのは、やはり「宿善」の厚薄が関係しているのでしょうか?」(頂いた質問)
2026/05/23
今回は、以下の質問について話をしました。 頂いた質問 -- 第53回目のネットラジオ版安心問答を聞いて、阿弥陀仏の側で、この人は好きだから早く救おうとか、この人は嫌いだから救うのは遅くしようとか、そういった差別はないことが分かりました。 そこで、また重ねてお尋ねがあります。 阿弥陀仏の側で救いの差別はしていないけれども、現世(今生)で救われる人と、来世(未来世)で救われる人が出てきてしまうのは、やはり「宿善」の厚薄が関係しているのでしょうか? 浄土真宗辞典で「宿善」について調べたら、①過去世に積んだ善根のこと。 ②宿世の善因縁の意で、獲信のための善き因縁のこと、と書いてありました。 また、「宿善」は浄土真宗では、信心を得る縁となる阿弥陀仏の調育のはたらきであるとすると書いてありました。 さらに「宿善の開発」を同じく浄土真宗辞典で調べたら、信心を得るための過去の善き因縁が熟して、信心が開けおこること、と書いてありました。 そうすると、早く信心獲得できるかできないかは、「宿善」が厚いか?薄いか?に拠る所が大きな要因になると、この浄土真宗辞典では読めてしまうのですが、 実際の所は、この「宿善」が信心獲得の大きな要因になるのでしょうか? また、もし「宿善」の厚薄が阿弥陀仏の救済の因縁であるとするならば、たくさん善い行いをしたり、たくさん念仏を称えたり、たくさん聴聞をしたほうが、早く阿弥陀仏の救済に遇えると考えてしまうのですが、実際はどうなのでしょうか? 今回は、この阿弥陀仏の救済と「宿善」の関係について、またネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせていただけると有り難いです。 -- ○話の中ででたご文 一 光明・名号の因縁といふ事。  十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。 (略) また光明寺(善導)の御釈(礼讃)には、「以光明名号摂化十方 但使信心求念」とものたまへり。  しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。(浄土真宗聖典註釈版P874) ○鎮西派・聖光房弁長(弁阿)上人「浄土宗名目問答」 このこと極めたる僻事なり。そのゆえは、全く他力を憑みて一分も自力なしということ、道理としてしらるべからず。自力の善根なしといえども他力によって往生を得るといはば一切の凡夫の輩、いまに穢土に留まるべからず。みなことごとく浄土に往生すべし。(浄土宗全書10・ P410) ---- 質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ [email protected] X(@anjinmondou)⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから ⁠マシュマロ⁠
#053「同じ内容の本願を聞いていても、本願を信じられずに、念仏だけ称えている者は、阿弥陀仏のお救いから漏れてしまうのでしょうか?」(頂いた質問)
2026/05/15
#052を聞かれたら方から以下の質問を頂きました。 今回はこちらについて話をしています。 ーー ⚪︎質問 「念仏衆生摂取不捨」の念仏者とは、阿弥陀仏の本願を聞いて、その本願の通りに念仏している者(本願を信じ念仏している者)を摂取して見捨てないということですが、 ①同じ内容の本願を聞いていても、本願を信じられずに、念仏だけ称えている者は、阿弥陀仏のお救いから漏れてしまうのでしょうか? ②もしそうだとしたら、阿弥陀仏の本願は、差別的な本願になりませんか? (信心のある念仏者は救うが、信心がない念仏者は救わないという差別になりませんか?) ③もし、阿弥陀さまの本願が、本願に疑いある者は救わずに、本願に疑い晴れた者だけ救う本願であれば、どうして「無条件のお救い」とか、「無差別のお救い」とか、「そのまま救う」とか、そんな無責任なことが言えるのでしょうか? ④同じ内容の阿弥陀仏の本願を聞いていても、阿弥陀仏の本願によって救われる者と、救われない者が出てきてしまうのは、何が原因になっているのでしょうか? ⑤もし私の側に何か救われない原因(理由)があるとすれば、それは何でしょうか? ⑥また、阿弥陀さまは、私を救いたくても、本願に疑いある状態のままでは、私を救うことができないのでしょうか?(本願に疑いある念仏者は救えないようなシステムや構造になっているのでしょうか?) ーー 話の中で出したご文 ⚪︎「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典註釈版P711) ⚪︎(60) 不了仏智のしるしには  如来の諸智を疑惑して  罪福信じ善本を  たのめば辺地にとまるなり(正像末和讃・誡疑讃・浄土真宗聖典註釈版P610) 質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠ [email protected] X(@anjinmondou)⁠⁠⁠https://x.com/anjinmondou⁠⁠⁠ 匿名での質問はこちらから マシュマロ
#052「念仏衆生摂取不捨」について・「念仏によって救われるのか?」「信心によって救われるのか?」(頂いた質問)
2026/05/08
今回は、こちらについて話をしています。 -- 第51回目のお話しの中で、阿弥陀さまは本願を疑いなく聞き受けて、信心が定まった者を忘れずに必ず摂取して見捨てないというお話しがとても印象的でした。 その話を聞いて、私は念仏衆生摂取不捨というお言葉がすぐに頭に思い浮かびました。 以下は、AIで、念仏衆生摂取不捨の意味について調べた内容です。 AIの回答を、そのままコピーしたので、少し長文になりますが、一読していただき、このAIの回答に間違いがないか?もし間違っているとしたら、どこが間違っているか?を取り上げていただき、またお時間がある時に、ネットラジオ版安心問答で、「念仏衆生摂取不捨について」お話しをしていただけるとありがたいです。 ちなみに、私が主に知りたいのは、「念仏によって救われるのか?」「信心によって救われるのか?」についてです。(頂いた質問) -- 資料として頂いたAIによる「念仏衆生摂取不捨」の文章です。 -- (以下がAIの回答の全文です) 「念仏衆生摂取不捨(ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ)」は、阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏」と念仏を称える人々を光明で照らし、決して見捨てず、必ず極楽浄土へ救い取るという救済の約束を表す言葉です。『観無量寿経』に基づく浄土教の根幹となる教えで、現世での安心と死後の救済を意味します。  真宗の本棚 +4 意味と詳細 - 出典: 『仏説観無量寿経(観経)』の「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」という一節。 - 摂取不捨(せっしゅふしゃ): 逃げ惑う者(衆生)を追いかけ、必ず捕らえて抱きしめ、二度と捨てないこと。 -- 念仏衆生(ねんぶつしゅじょう): 念仏を称えるすべての人。 -阿弥陀仏の救い: この世では光に照らされて守られ、死後は極楽浄土へ連れて行かれるという絶対の幸福。  --真宗の本棚+4 Usage Examples (使い方・関連語) -摂取不捨の利益: 念仏を称える者が、阿弥陀仏にすがり、死後必ず浄土へ往生できるという幸せ。 -摂取の光明: 衆生を摂め取って捨てない、阿弥陀仏の智慧の光。 -光明遍照(こうみょうへんじょう): 阿弥陀仏の光がすべての世界をあまねく照らしていること。 -法然上人の教え: 摂取不捨を「月の光」にたとえ、公平に注がれる慈悲を信じて念仏を称えるよう説いた。  --浄土真宗本願寺派総合研究所 - +4 類語・関連表現 -他力本願: 自らの力ではなく、阿弥陀仏の力によって救われる。 -見捨てぬぞ・必ず救う: 摂取不捨を分かりやすく表現した言葉。 -おさめ取って捨てない: 摂取不捨の分かりやすい現代語訳。  - -浄土真宗本願寺派 +4 -この言葉は、法然や親鸞が、どのような罪深い者でも念仏によって救われる根拠とした、非常に重要な言葉です。  --浄土宗全書テキストデータベース +2 -- 話の中で出したご文 一々光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨(一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。)(観無量寿経・浄土真宗聖典註釈版P102) (82) 十方微塵世界の  念仏の衆生をみそなはし  摂取してすてざれば  阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃・浄土真宗聖典註釈版P571) 摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる。(浄土真宗聖典註釈版P571) またかの一々の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。 われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。(往生要集・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P956) いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。(教行信証・行巻・浄土真宗聖典註釈版P186)

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