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小山ナザレン教会

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This podcast has
196 episodes
Language
Japanese
Explicit
No
Date created
2023/04/02
Latest episode
2026/10/25
Average duration
23 min.
Release period
7 days

Description

栃木県小山市にあるキリスト教会です。日曜日の礼拝での説教(聖書のお話)を毎週お届けします。

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平和を目指すその道のりで(稲葉基嗣) – 創世記 13:1–18
2026/10/25
2026年10月25日 三位一体後第21主日 説教題:平和を目指すその道のりで 聖書: 創世記 13:1–18、フィリピの信徒への手紙 4:6–7、詩編 121、マタイによる福音書 28:19-20 説教者:稲葉基嗣   ----- 神の祝福って、具体的にはどんなものなのでしょうか?この世界での繁栄や成功が信仰の結果というのは、確かにわかりやすいものです。でも、それがかなわなかったら?それは、神の祝福はもはやないってことを意味するのでしょうか?創世記の物語は、アブラムの家族に資産が増えたことを報告しています。彼らが神の祝福と考えていた資産や家族の増加が原因となって、彼らの家族の中でトラブルが起こります。彼は、ここまで一緒に旅を続けて来た親族である、甥のロトと話し合いました。この争いを終わらせるために、ふたつのグループに別れることにしました。そして、ロトにどの地方へ行くのかの選択権を与えました。その結果、彼は平和を求めるゆえに、ロトと共に暮らすという選択を手放しました。その後、神は再びアブラムに向かって、約束の言葉を語りかけています。神が語ることは、どれもその時点で実現しているものではありませんでした。けれども、神はその約束は確かなものだから、その土地を自由に、縦横無尽に歩けと言います。それは神がアブラムといつも常に、永遠に共にいるからです。どのような選択をしても、どのような苦しい決断をしたとしてもです。神が共に歩み、最終的な責任をいつも負ってくださり、神がその歩みをはじめから終わりまで、守り、導いてくださる。それこそが、神がアブラムに与えた、変わらない祝福です。自らの持つものに固執せず、平和を求めることは、まさにイエスさまが選んだ道を思い起こさせます。平和を求めるイエスさまの歩みは、決して順風満帆ではありませんでした。私たちのために傷つき、涙を流し、私たちを憐れみ、愛し、罪を赦し、私たちのことを最後まで諦めない。そんなイエスさまが私たちといつまでも共にいてくださるのです。アブラムが経験したように、自分たちの日常の中で平和を作り出す必要に迫られ、行動を起こさなければならないことは、私たちにだってしばしばあります。どんな時も、必ず成功や達成感が待っているとは限りません。私たちがどこへ行くときも、どのような決断をするときも、神は私たちを見捨てず、私たちと共に歩んでくださいます。だから、私たちは、イエスさまと共に平和を目指す道を歩むことができます。どうか出会う人たちに言葉によって、行動によって、そして生き方によって、祝福を分け与えることができますように。
一人ひとりの尊さを見つめる場所(稲葉基嗣) – 創世記 12:10–20
2026/10/18
2026年10月18日 三位一体後第20主日 説教題:一人ひとりの尊さを見つめる場所 聖書: 創世記 12:10–20、テサロニケの信徒への手紙 一 5:12–18、詩編 1、マタイによる福音書 25:31–40 説教者:稲葉基嗣   ----- サライはアブラムのきょうだいであり、妻です(20:12参照)。ですから、アブラムの話した事は嘘とも言い切れません。ある意味で、自分の命を守るために真実の一部を隠した行動とも言えるでしょう。けれども、そのようなアブラムの言葉に騙され、サライを自分の元に迎え入れたファラオは被害者のようにも感じられます。でもこの物語の中で忘れてはいけないのは、権力関係が横たわっていることです。明らかに力がなく、最も大きな被害を被っているのは、サライだといえます。アブラムはサライと引き換えに自分の命の安全を手にします。また、彼はサライと引き換えに、多くの財産を手に入れました。都合の良いように妻サライを用いて自らの危険を乗り切ったとも言えるでしょう。そのような中、サライは言葉を発せず、沈黙し、大きな力に抵抗できずにいます。そんな彼女の姿を象徴するように、彼女の名前はほとんど記されていません。一人の人として尊重されるよりも、交渉のための道具のように、彼女は周囲から扱われています。サライのこのような扱われ方は、神が人間を創造したときに、意図したこととは明らかに異なります。ひとりひとり、すべての人間が、誰も欠けることなく、神のかたちに似せて作られた尊い存在であると神は伝えています。だから、サライとの関わりにおいて、アブラムの行動にはやはり問題があったと言わざるを得ません。誰かを物のように扱ってしまう事は、現代社会でも何度も起こっている問題です。ひとりの尊い存在として見つめてもらえない。見つめられない。自分自身のことを尊い存在と考えられないほどに、完璧さを求められてしまう。だから、私たちには、一人ひとりの尊さを見つめることのできる場所が必要です。私たちは、神が私たち一人ひとりの尊さを見つめてくださっていると知っています。信じています。それを経験しています。イエスさまは何よりも、私たち一人ひとりの尊さを見つめてくださる方でした。どんなに弱く、どんなに社会の中で小さくされていた人であったとしても、私たち一人ひとりは、イエスさまにとってとても重要で、愛するべき存在です。そんな神の愛に触れてるからこそ、私たちにとって一人ひとりの尊さを見つめる場所は何よりも大切な場所です。神は教会こそそんな場所であり続けて欲しいと願っています。出会う一人ひとりのその尊さを、そして皆さん自身の尊さをどうか忘れないで見つめてください。
SDG(石田学) – ローマ 16:25–27
2026/10/15
2026年10月11日 三位一体後第19主日 説教題:SDG 聖書: ローマの信徒への手紙 16:25–27、イザヤ書 6:1–8、詩編 96、ヨハネによる福音書 13:31–32 説教者:石田学   ----- SDG。かわった説教題と思われたことでしょう。近年、最後に複数形のsがついた形で有名になりました。「持続可能な開発目標」の略号です。しかし、キリスト教の歴史では違う意味を持ってきました。これは、三単語から成るラテン語の頭文字なのです。ラテン語ですから、エス・デー・ゲーと発音すべきでしょう。音楽家のバッハがSDGを楽譜に記し、カルヴァンが著作に書きました。ソリ・デオ・グロリア(Soli Deo Gloria)、神のみに栄光があるように。これはすべてのキリスト者が第一に掲げるべき身分証明です。パウロの名による手紙は新約聖書に13通あります。全てが「主イエスの恵みがあなたがたと共にあるように」で終わります。ただ一つの例外、ローマの信徒への手紙を除いて。ローマ書だけが、神に栄光を帰する賛美の祈りで終わるのです。「この知恵ある唯一の神に、・・栄光が世々限りなくありますように」なぜパウロはローマ書だけ、神の栄光を讃える祈りで閉じたのでしょう。そうする理由がパウロにはあったはずです。パウロはローマ書を書いたとき、これが最後になると予感していたのでしょう。そうであればこの最後の頌栄はパウロの生涯と働きの集大成とも言えます。パウロは、万物は神の栄光を表すために創造されたと確信していました。しかし、人は罪のために神から離れ、神を讃えることをしなくなりました。人は必ず何かを崇める存在ですから、神を崇めないなら他の何かを崇めます。人は神に代えて、自分を、国家を、支配者を、金を崇めるようになりました。神のかたちに創造された栄光ある人間の堕落、もっともみじめな罪の姿です。パウロの宣べ伝えた福音は、真の人間性の回復、罪からの解放です。福音とは、神による創造の本来の目的へと、新しく創造されることです。神による救いとは、神にのみ栄光を帰する者へと変えられることです。教会にはまったく異なる境遇の人たちが共に集っています。しかし、ただ一つのことが皆に共通していて、皆を一つにしています。それは、神に栄光を帰することを願い、そのように生きることです。神に栄光を帰することにおいて優劣も上下もなく、等しく兄弟姉妹です。ローマ書が神に栄光を帰する頌栄で終わるのは、それが究極の目標だからです。神のみに栄光を帰する、それはキリスト者であることの明確な身分証明です。神にのみ栄光を帰することは、わたしたちにとって難しいでしょうか。いいえ、日常の生活において「これは神の栄光を表すか」を考えることです。
その旅は希望に満ちていたのだろうか?(稲葉基嗣) – 創世記 12:1–9
2026/10/04
2026年10月4日 三位一体後第18主日 説教題:その旅は希望に満ちていたのだろうか? 聖書: 創世記 12:1–9、ヘブライ人への手紙 11:8、詩編 100、マルコによる福音書 1:1–8 説教者:稲葉基嗣   ----- 「私が示す地に行きなさい」と、神がアブラムに語りかけたとき、彼はこの言葉を一体どのように受け止めたのでしょうか。旧約聖書が書かれた言語であるヘブライ語で、この箇所を読んでみると、「レフ・レハー」というフレーズが使われていることがわかります。直訳すると、「行きなさい、あなたのために」です。神が語るのは、アブラムにとっての利益よりも不利益のように見えてしまいます。アブラムは神からどこに行くのかもはっきりとは示されないで、生まれ故郷を離れろ、家を出て行けと、語りかけられているからです。アブラムに語りかけられたこの言葉は、もう一度、彼の物語に登場します。アブラムは、息子のイサクを連れて神が示す場所へと行きなさい(22:2)、と神から伝えられ、息子イサクを捧げなさいと理不尽な要求をされました。このように、この言葉から、不穏さや将来に対する不安を感じさせられます。アブラムに語りかけられた言葉は、彼の背中を押すような言葉でも、無理強いさせて旅へと促すような言葉でもなかったといえるでしょう。過去に積み重ねてきたことを手放し、未来に希望していたものを諦めてしまう。そんな理不尽で、不条理な人生の旅路の中で、いつまで続くか、どこに行き先があるか全くわからない旅路の中で、神がどのようにアブラムに関わるのかを伝えるために、語られた言葉でした。それは、神がアブラムを祝福し、アブラム自身を祝福とすることでした。「あなたのために」と言われつつ、何度も、喪失を経験する。何度も、挫折をし、失敗だってする。そのような旅の中で、アブラムは何度もこの神の言葉を思い出したことでしょう。そして、問いかけたことでしょう。旅立ったのは何のためになったのか。自分にとってこの旅が何なのか。このようなアブラムの旅立ちを見つめる時、何を思うでしょうか。私たちにとってアブラムが旅の中で経験したように、何かを失い、手放していくことは、私たちにとっての日常です。何かを失う時、何かをあきらめる時、その信仰の旅の中で神は何度も私たちに「行きなさい、あなたのために」と語りかけてくるのだと思います。もちろん、「あなたのために」と言われても、本当に私のためになっているのかは、わかりません。それでも私たちは、その問いを抱えたまま、共に歩んでくださる神に向かって問いかけながら、信仰の旅路を歩むのです。
不満のただなかにやってくる神(稲葉奈々) – 出エジプト 17:1–7
2026/09/27
2026年9月27日 三位一体後第17主日 説教題:不満のただなかにやってくる神 聖書: 出エジプト記 17:1–7、マタイによる福音書 21:23–32、詩編 78、フィリピの信徒への手紙 2:1–13 説教者:稲葉奈々(日本ナザレン神学校3年)   ----- 人々が神を疑い、神を試す。このようなシーンが、聖書にはたくさん登場します。出エジプト記17章のレフィディムで、イスラエルの民は飲み水がなくなり、モーセに激しく不満を訴えました。荒野で水がないことは生死に関わる問題であり、彼らの訴えは単なるわがままではなく、切迫した魂の叫びでもありました。イスラエルの民は、これまでも水や食料などの困難に直面するたびにモーセへ不満をぶつけてきました。神によってエジプトから導き出され、必要を満たされてきたにもかかわらず、困難に遭うと神様を信頼することができず、モーセに責任を転嫁したのです。しかし神様は、彼らの不満を突き放すのではなく、モーセに岩を打つよう命じ、そこから水を湧き出させました。神様が人間の身体的な必要を満たすだけでなく、不安のただ中にあっても「神が共におられる」という安心を与えてくださったのです。この物語は、不平不満を口にすること自体を否定しているのではありません。「神様、なぜですか」と叫びたくなる理不尽な出来事は現実に引き起こります。重要なのは、その苦しみを他人や環境への憎しみや責任転嫁に変えるのではなく、神様ご自身に向けていくことです。この神様の姿は、イエス・キリストにおいてさらに確かなものとなります。祭司長や民の長老たちも神を信じていたはずですが、目の前に現れた神の生きたしるしであるイエスを試し、最終的には十字架へと追いやってしまいました。しかし神様は、その人間の罪さえも取り扱い、イエス・キリストの十字架と復活を通して私たちを救いと希望の道へと招いてくださったのです。私たちも日々、神様を信じながら不安や不満を抱きます。しかし神様はむしろ不満や苦しみのただ中に入り、何度でも私たちと向き合い、必要を満たしてくださいます。だから私たちは、不満を抱く自分を責めるのではなく、それを神に差し出してよいのです。岩から流れ出た命の水のように、キリストの十字架から流れる恵みが私たちの日常にも注がれていることを信じ、今日も神様に支えられながら歩んでいくのです。
世に勝っている?(稲葉基嗣) – ヨハネ 16:25–33
2026/09/20
2026年9月20日 三位一体後第16主日 説教題:世に勝っている? 聖書: ヨハネによる福音書 16:25–33、イザヤ書 30:18–26、詩編 47、ガラテヤの信徒への手紙 6:14–18 説教者:稲葉基嗣   ----- 勝つことを追求し続けるとたくさんの歪みを抱えてしまうでしょう。誰かに勝つことや他の誰かを出し抜くことや、他の誰よりも上に立つことばかり考えることが、常に良いものを私たちの人生やその周囲にもたらすとは限りません。でも、それなのに、私たちの生きるこの世界は戦いを続け、勝利を求めています。イエスさまは、「私は既に世に勝っている」(33節)と語りました。結局イエスさま自身も、私たちのこの世界と同じような価値観の下で、勝利というものを考えていたということなのでしょうか。イエスさまは弟子たちに向かって、「あなた方には世で苦難がある」(33節)と語りかけました。この苦難に対して「勇気を出しなさい」とイエスさまは語っています。つまり苦難の中にあったとしても、その苦難から解放されなかったとしても、その苦難の中において救いがあるということです。イエスさまが、世に対して勝利した方法とは、十字架の上にかかり、命を失うということでした。明らかにそれはイエスさまの勝利とは思えないことです。でもイエスさまは既に世に勝っていると言います。それは、イエスさまのこの十字架上での出来事において、神がすべての人の罪を赦すからです。この世界のあらゆる罪、悪に、神が勝利する手段が、イエスさまの十字架でした。イエスさまがここで語っている「世に勝っている」とは、私たちが想像するような勝利とは絶対的に違います。それは、力による、暴力的な勝利ではありません。イエスさまが勝ったと言っているのは、罪に対してです。罪の支配を終わらせることこそ、イエスさまの語る勝利です。イエスさま自身が傷つきながら、私たちを、そしてこの世界を愛することでした。私たちやこの世界が抱える罪を徹底的に赦すことでした。ですから、私たち自身は、世に勝つ必要などありません。私たちが招かれている世界は、イエスさまから受けた愛をお互いに分かち合っていく世界です。勝利を追い求めて誰かと接するのではなく、神から受けた赦しを喜びながら、お互いに向き合って、手を取り合うことができる世界です。イエスさまが「私はすでに世に勝っている」と語っているように、そのような世界はもう既に始まっています。
わたしたちの生きる道は(石田学) – ローマ 16:17–24
2026/09/19
2026年9月13日 三位一体後第15主日 説教題:わたしたちの生きる道は 聖書: ローマの信徒への手紙 16:17–24、ホセア書 14:5–9、詩編 111、マルコによる福音書 10:13–16 説教者:石田学   ----- ローマの信徒への手紙は、パウロ書簡の中でもっとも長い手紙です。皆さんは、この手紙を読むのにどれくらい時間がかかると思いますか。一人で声を出して読むと、およそ70分です。パウロの使者としてローマに行ったフェベはこの手紙を朗読しました。一気に読むのは大変だったでしょうが、聞く方も大変だったはずです。そんな長い手紙は、最後の部分だけしか覚えていないものです。だから大抵は、意識して最後にもっとも重要な要点を書きました。ローマ書の場合、その最後の重要な要点が、きょうの聖書箇所です。ここからローマ書でパウロがもっとも伝えたかったことがわかります。「分裂やつまずきを引き起こす人たち」とパウロが呼ぶ、パウロの福音とは違うことを教えて教会を分断する敵がいたのです。彼らを警戒し遠ざかりなさいと勧めることがパウロの目的でした。まさにこのことのために、パウロはローマ書全体を書いたとさえ言えます。ローマの信徒が彼らに惑わされないために、パウロは言葉を尽くして、福音を解き明かし、教会とは何かを教え、信仰者の生き方を示しました。そしてパウロは、手紙の最後にこの警告を結論として書いたのでした。しかし、警戒し遠ざかれと言われても簡単ではありません。相手は羊の皮を被った狼のように、巧妙で説得力に長けているからです。各地を旅しているパウロに逐一質問することはできません。優れた教師や指導者が正解を与えてくれることも期待できません。なんでも教えてくれるガイドブックや教本があるわけではありません。キリストを信じるということは、主に従う道を歩むということです。キリスト者として生きる道は、目指す目的の地は皆同じですが、一人一人異なる生涯であるからには、歩む道のりもそれぞれです。みんなに使える手軽な回答集や「あんちょこ」などはありません。必要なのは、信仰者として生きる道を歩むための、大原則です。パウロはすべての信仰者に共通するその大原則を示すのです。「善にはさとく、悪には疎くあることを望みます」と。簡単ではありません、自ら考えて判断することが求められますから。しかし、全部自己責任でも有無を言わせぬ隷属でもありません。神の知恵であるキリストの愛と慈しみを善の基準とすることと、悪に慣れたり馴染んだりしないでキリストと歩むこと。この大原則をパウロは、「私は命じる」ではなく「望みます」と告げます。わたしたちはキリストにあって自由と尊厳を与えられているからです。
誰にも奪えない喜び(稲葉基嗣) – ヨハネ 16:16–24
2026/09/06
2026年9月6日 三位一体後第14主日 説教題:誰にも奪えない喜び 聖書: ヨハネによる福音書 16:16–24、ヨブ記 1:1–22、詩編 16、フィリピの信徒への手紙 4:4–7 説教者:稲葉基嗣   ----- 私たちは人生のさまざまな場面で喜ばしい経験をします。でも、その喜びが決して永遠には続かないことを、どこかでわかっています。主イエスは「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と言います(22節)。誰も奪うことができない喜びなど、あるのでしょうか?今日、私たちは旧約聖書からヨブ記を読みました。ヨブは一度にたくさんの財産を失い、大切な家族の命を失いました。このようなヨブの姿を見つめるとき、私たちは人生の不条理さを覚えます。イエスさまが語っている、誰にも奪われない喜びがあるなんて信じられません。それよりも、ヨブが経験した出来事の方が、はるかに私たちにとっては現実的なもののように感じてしまいます。もちろん、イエスさまは、私たちが人生を通じて経験する、そういった悲しみや苦しみに対して、鈍感で、無関心であったわけではありません。なぜイエスさまは喜びを奪い去る者はいないなどと語ったのでしょうか?「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなる。」(16節)この言葉は、イエスさまが十字架刑へと、自らの死へと向かっていくその瞬間のことを伝えたものでした。でも、イエスさまはもう一度、「しばらくすると」と伝えます。それはイエスさまが弟子たちと再会できることを伝えた言葉でした。死者の中からよみがえりイエスさまは弟子たちと再び会いました。この復活の後の再会を見越して、イエスさまは弟子たちに伝えたのです。この喜びを誰も奪うことができないと。復活した主イエスとの出会いは、なぜ誰にも奪えない喜びをもたらすのでしょうか。それは何よりも、死が最終的な勝利者ではないことを弟子たちに、そしてすべての人に伝えるものでした。死の後に、復活の望みがあり、天の国において愛する仲間たち、家族や友人たちと再会する希望があると、イエスさまは伝えています。私たちが経験する悲しみや苦しみは変わらないかもしれません。でも、それでも、私たちには揺るがない望みがあります。消えない希望があります。主イエスにあって、明らかになった復活の命があります。復活の主であるイエスさまが私たちと共にいてくださる。主イエスにあって結ばれた教会に集う仲間たちと、喜びの時も、苦しみの時も、哀しみの時も、一緒に歩み、様々な時を乗り越えていきます。これこそ、私たちにとって、誰も否定できない、誰も奪うことができない喜びです。この喜びを心に抱き、天の御国へと向かう信仰の旅を一緒に続けていきましょう。
なぜ私たちに聖霊が与えられたのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 16:4b–15
2026/08/30
2026年8月30日 三位一体後第13主日 説教題:なぜ私たちに聖霊が与えられたのか? 聖書: ヨハネによる福音書 16:4b–15、イザヤ書 48:12–16、詩編 95、ローマの信徒への手紙 8:26–27 説教者:稲葉基嗣   ----- 聖書を読んでいると、時々、矛盾したことを発見することがあります。ヨハネ福音書の中に収められているイエスさまの言葉には、まさに矛盾があります。イエスさまは何度も弟子たちからどこへ行くのかと尋ねられていました。自分の死をほのめかしながら、自分は神のもとへ行く。だから、弟子たちと一緒にいることはできないと、イエスさまは何度も伝えました。それなのに、なぜイエスさまは「あなたがたのうち誰も、『どこへ行くのか』と尋ねる者はいない」(5節)と語ったのでしょうか。イエスさまが去ることについて、イエスさまに問いかけたときの弟子たちの大きな関心は、イエスさまがいなくなった後、自分たちはどうなってしまうのか、ということにありました。その際、不安を抱え、心を騒がせる弟子たちをイエスさまは励ましました。その意味で彼らの質問は、イエスさまのことをあまり考えていないものでした。だから、イエスさまは、これまで弟子たちから何度もどこへ行くのかと尋ねられていても、「どこへ行くのか」と尋ねる者はいないと言ったのでしょう。そもそもなぜイエスさまが離れていく理由を語る必要があったのでしょうか。イエスさまが去っていくことは、イエスさまの使命に反するように思えるためです。イエスさまが弟子たちのもとを去る理由は、彼らに聖霊を与えるためです。肉体を持ったイエスさまは、すべての人と一緒にいることができません。だから、イエスさまは天に昇り、すべての信仰者のもとに聖霊を送り、聖霊によって結ばれることによって、すべての人と共にいることを望みました。聖霊なる神は、イエスさまの言葉が今を生きる私たちにとって、どのような意味があるのかを私たちに示す方です。聖書に書き記された言葉を聖霊が私たちにとって生き生きした、温かな血の通った息づいた言葉へと変えてくださることを願い、私たちは祈り、聖書の言葉にいつも耳を傾けています。変わりゆく社会、文化、人々の生活に常に神が語りかけ、共に生きるために、私たちには助けが必要です。出会ったこともない新しい問題に頭を抱え、これからどうするべきなのかと、私たちは何度も悩みます。そんな私たちと一緒に聖霊もうめき声をあげ、神に祈りの声を上げながら、一緒に歩むべき道を模索してくださっています。聖霊が伴い、私たちとイエスさまを結びつけてくださいます。どうか聖霊を通して語りかけられる神の言葉にいつも耳を傾け、これからも信仰の旅路を続けていくことができますように。
教会、それは友の交わり(石田学) – ローマ 16:6–16
2026/08/29
2026年8月23日 三位一体後第12主日 説教題:教会、それは友の交わり 聖書: ローマの信徒への手紙 16:6–16、イザヤ書 52:7–10、詩編 84、ヨハネによる福音書 15:13–15 説教者:石田学   ----- 聖書は、実に多彩な言い方で教会の交わりを表現しています。兄弟姉妹、キリストの肢体、神の民、神の家族、牧場の羊の群れ、仲間、友、天に国籍を持つ同国人、世を旅する民、聖徒・・。聖書には、なぜこれほど多様な表現が出てくるのでしょうか。それは神の民である教会の交わりがあまりに豊かで包括的なので、いくつかの言い方だけで語り尽くすことができないからです。これだけ豊かな言い方で互いの交わりを体験できる共同体は、この世のどこにも、他には存在していません。どの言葉も教会の交わりの本質を言い表しています。しかし、中でも「友」という言い方は特別です。主イエスご自身が弟子たちを友と呼ばれたからです。「あなたがたは私の友である」「私はあなたがたを友と呼んだ」。この言葉は主イエスと弟子の関係だけでなく、弟子たち同士の関係でも同じであるはずです。誰が偉いか、誰がイエス様の隣にすわるか、誰が支配者か、そんな上下や比較とは無縁の、対等で慈しみあう関係が友です。そしてこの関係性こそ、最初から最後まで教会の本質です。教会とは、主イエスの友とされた者たちの交わりだからです。パウロは、そのような友の交わりを生きる人々の名を挙げたのです。さて、教会の歴史の中でその業績と名声が燦然と輝くパウロですが、彼の生涯は最初から最後まで、苦難と危機、挫折と苦悩の連続でした。パウロの福音を否定する人々の陰謀や迫害に苦しめられました。何度も逮捕され、4年以上投獄され、最後にローマで処刑されました。失意、落胆、敗北、囚人、それがパウロの晩年を特徴づけています。人間的にはパウロの生涯は不幸であり敗北者のように見えます。しかし、それではパウロは孤独で不幸だったのでしょうか。ローマ書の挨拶は、パウロが得ていた教会の交わりを証言しています。愛し愛され、祈り祈られ、支え支えられる友の名を列挙するのです。命の危険を感じる困難の中で、パウロは彼らとの交わりを想起します。ただ祈ってほしいと願うだけでなく、困難の中で彼らのために祈るのです。パウロほどでなくとも、いつかわたしたちも困難と苦難の道を歩みます。その時、孤独と失意に終らず、信仰の友との交わりに生き、生かされるか、それがわたしたちの生涯がどのようなものかを結論づけることでしょう。生涯の最後まで友に祈られ、友のために祈る、それがわたしの願いです。
対立や敵意とどのように向き合えば良いのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 15:18–16:4a
2026/08/16
2026年8月16日 三位一体後第11主日 説教題:対立や敵意とどのように向き合えば良いのか? 聖書: ヨハネによる福音書 15:18–16:4a、ネヘミヤ記 9:26–31、詩編 46、エフェソの信徒への手紙 2:14–16 説教者:稲葉基嗣   ----- ヨハネによる福音書にとって、「世」というものはいつも弟子たちに対して好意的なわけではなく、むしろ、敵意をもって弟子たちを見つめています。イエスさまを信じているがゆえに、世が弟子たちに敵対的になってしまうのです。一体なぜ世は、イエスさまの弟子たちに対立し、敵意を持つのでしょうか。そもそもイエスさまこそが、まず世から憎まれ、敵意を向けられました。それは、イエスさまが弱く、力がなく、社会の中で蔑まれていた人たちに手を差し伸べたことが、疎ましく感じられたからです。権力や暴力によってではなく、ただ弱さによって平和を作ろうとしたからです。このようなイエスさまを信じ、イエスさまのように生きたいと願うならば、イエスさまと同様にこの世界から敵意や反感を買うことになるのは当然でした。しかし、たとえどんなに周りの人たちが自分たちに対して敵対的であったとしても、イエスさまはそのことを前もって知って、励ましてくださいました。聖霊にあってイエスさまが共にいて、愛や憐れみをいつも証言してくださる、と。ところが、世が弟子たちに対して敵対してくることをこの福音書において読む時、私たちは時々、この世界がいつも私たちに敵意を抱き、対立的に思えてしまうという思い違いをしてしまいます。それゆえに、私たちの側がこの世界に対して対立的になってしまうことがあります。時には、この世界から自ら進んで遠ざかってしまうことがあります。また、イエスさまの言葉が示すように(16:2)、自分たちの持っている暴力的な面や現実の対立関係を信仰によって正当化してしまうことは十分に起こり得ます。でも本来そのような対立は、そもそもイエスさまが願っていたことではありません。何よりも、イエスさまはこの世界を愛したから、この世界に来てくださいました。世界が私たちに敵対的に見える時、そこに敵意を感じる時、それは明らかにこの世界が抱える課題なのでしょう。それをイエスさまと共に見つめるならば、私たちがすべきことは明らかに、同じように敵意を抱いて、対立を生み出すことではありません。私たちはこの世界が抱える課題が、解決されていくことを神に祈り求めます。イエスさまは、敵意を向けられても、愛と憐れみをもって最後まで関わりました。同じように、対立や敵意と向き合う時、私たちの心を支配するのは、主イエスにある愛や憐れみです。
約束の虹を共に見つめる(稲葉基嗣) – 創世記 9:8–17
2026/08/14
2026年8月14日 平和の祈り 説教題:約束の虹を共に見つめる 聖書: 創世記 9:8–17 説教者:稲葉基嗣
ぶどうの木につながり、実を結ぶ(稲葉基嗣) – ヨハネ 15:1–17
2026/08/09
2026年8月9日 三位一体後第10主日 説教題:ぶどうの木につながり、実を結ぶ 聖書: ヨハネによる福音書 15:1–17、エゼキエル書 15:1–6、詩編 133、ガラテヤの信徒への手紙 5:22–23 説教者:稲葉基嗣   ----- イエスさまは、「私はまことのぶどうの木」と言い、弟子たちのことをぶどうの木の枝と表現しました。イエスさまはこの時、自分と弟子たちとの関係性、そして自分と私たちとの関係性こそが大切だと伝えました。イエスさまが望んだのは、ぶどうの木と枝がつながり続けているように、親密な関係を弟子たちとの間に築き続けることです。イエスさまは、弟子たちの友となり、私たちの友となってくださいました。イエスさまはこのぶどうの木とその枝のイメージを用いて私たちに伝えています。それはぶどうの木であるイエスさまにつながっている私たちが、実を結ぶことです。友であるイエスさまとの関わりの中で、良い実が私たちの中で育まれていきます。友として共に生き、豊かな交わりを持つことを通して、イエスさまは私たちを養い、豊かな命に溢れた歩みへと招き入れてくださっているのです。イエスさまの私たちに対する友としての関わりは、ご自分の命を投げ出すほどのものでした。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語り、ご自分がこれから歩もうとしている道について、弟子たちにほのめかしました。自分の命を最後まで守り抜くことよりも、私たちを最後まで愛し抜くことをイエスさまは選んでくださいました。その愛を受けた私たちもまた、誰かのために自分を用いて生きるよう招かれています。ぶどうの木であるイエスさまのうちに留まり、イエスさまと共に生きていくとき、私たちはイエスさまを通して、神の愛を受けます。神の憐れみを受け、平和の思いを与えられます。そういったものが私たちのうちに実を結んでいきます。その実は、自分のためだけに結ばれるものではありません。実というものは誰かを養うため、誰かの命を生かすためにあります。私たちは誰もが違う存在ですから、それぞれが結ぶ実は様々な形をしています。神はそれを喜んで、見つめて、「互いに愛し合いなさい」と語りかけてくださいます。自分だからこそ持っている実を携えて、私たちはこの世界へと出て行きます。そんな風に、枝である私たちが実を携えて出て行くことを通して、神の愛や憐れみは、この世界へと広がっていきます。
主イエスは平和を残す(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:25–31
2026/08/02
2026年8月2日 三位一体後第9主日 説教題:主イエスは平和を残す 聖書: ヨハネによる福音書 14:25–31、ゼカリヤ書 8:16–19、詩編 29、コロサイの信徒への手紙 3:15 説教者:稲葉基嗣   ----- 平和とは何なのでしょうか。誰もが、戦争や紛争のない、虐殺や報復攻撃、威嚇や裏切りのない、静けさのある、平穏な世界を求めています。もちろん、戦争がなければ、平和というわけではありません。平穏で静かな日々が広がっているように見えても、いつもそこにすべての人にとっての平和があるわけではないのです。そのようなことを思い巡らしながら、きょうの福音書の物語に目を向けてみると、イエスさまのある言葉が目に留まります。私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。(27節)イエスさまは平和を残すと言って、弟子たちの手に平和を委ねていきました。誰かの圧倒的な力、権力によって、実現されるものがイエスさまの目指す平和ではありませんでした。暴力による支配は、平和を作り出すように見えます。対立する意見を潰すからです。でも、そのような平和をイエスさまは良しとしませんでした。イエスさまのやり方は、平和を残していくことです。弟子たち自身が、自分の身近なところで、お互いに愛を示しあって、平和を形作っていく。力によってではなく、ただ、愛と憐れみによって、平和をこの世界で形作っていく。それこそが、イエスさまが平和を残すと言われた意味でした。平和が世界に静けさや平穏が広がることかというと、それは何だか違う気がします。むしろ、平和って、生き生きとして活気づいて、騒がしいものです。誰もが声を上げることができるなら、一人ひとりの言葉や存在が尊ばれるなら、平和って賑やかで、騒がしいものです。騒音や悲鳴や泣き叫ぶ声ではなく、罵倒する声や嘲る声でもなく、ただ喜びに溢れた笑い声が響く。そんな騒がしさが私たちの周りから広がっていきますように。イエスさまが平和を残し、平和に生きることを託した場所は、何よりも教会という主イエスによって結ばれた信仰者の群れにおいてです。どうか、この平和を私たちが携えて生きることを通して、少しずつこの世界にキリストの平和が広がっていきますように。
キリスト者は一人で荒野を行くか(石田学) – ローマ 16:1–5
2026/07/28
2026年7月26日 三位一体後第8主日 説教題:キリスト者は一人で荒野を行くか 聖書: ローマの信徒への手紙 16:1–5、ゼカリヤ書 9:9–10、詩編 47、ルカによる福音書 17:20–21 説教者:石田学   ----- キリスト教信仰には、古代から二つの大きな流れがありました。主イエスの弟子たちは共に主に従い、共に主の群れとして生きました。他方、世と人を離れ、神との関係だけを生きようとする人たちがいました。どちらか一方だけが正しいのではなく両方ともが大切で必要なのでしょう。しかし、日本の教会は長く、「わたしと神」の関係を強調してきました。一人で聖書を読み、祈る孤独な信仰は、あたかも一人で荒野を行くようです。だが、主イエスは最初から弟子を集め、共に生き共に旅しました。二、三世紀に孤独な隠修士が大勢出ましたが、すぐ修道院へと発展しました。弟子たちの群れは最初から、共に荒野を行くことが本質だったからです。きょうの聖書箇所に、フェベ、プリスカとアキラ、エパイネトが登場します。パウロは彼らのことをとても愛情溢れる仕方で紹介しています。フェベはパウロが滞在していた、コリントの隣町ケンクレアイの聖職者です。フェベは、パウロの手紙をローマに携えていく使者に選ばれました。彼女は「姉妹」「多くの人の援助者、特にわたしの援助者」と紹介されています。プリスカとアキラは、コリントでパウロと出会い、同労者となりました。パウロは彼らを「命がけでわたしを守ってくれたこの二人」と呼びます。エパイネトは「わたしの愛する、アジア州の初穂」と呼ばれています。パウロが教会でどのような交わりを持っていたかがよくわかります。彼らのような仲間なしには、パウロは働きを続けられなかったはずです。多くの試練、迫害、落胆に満ちた荒野の旅は、一人旅ではありませんでした。パウロはこの交わりに支えられ、彼らに絶大な信頼と喜びを抱いてきました。神の民とされ、神の家族とされた、共に荒野を行く兄弟姉妹がいる。支え合い、喜びと悲しみを分かち、共に祈り、共に礼拝する神の家族がある。その交わりがあればこそ、パウロは荒野の旅を続けることができました。もちろんパウロは、教会の仲間たちに過ちや欠点がないとは思っていません。意見の対立や感情的な衝突、考えの相違があったことは手紙から明らかです。だが、それらを超える霊的な交わり、天の国籍を持つ仲間でした。改めて問います、キリスト者は一人で荒野を行くのでしょうか。いいえ、わたしたちにとっても教会はまったく同じ意味を持っています。主キリストと共に生き、慈しみと愛を分かち、共に荒野を行く仲間がいます。目指すは同じ天の故郷、その幸いをわたしは今、ここで実感しています。

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