
Advertise on podcast: リジョイス聖書日課
This podcast has
1966 episodes
Language
JapanesePublisher
RCJメディアミニストリーExplicit
No
Date created
2019/09/24
Latest episode
2026/04/24
Average duration
-
Release period
1 days
Description
リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。
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神を喜びとする恵み(ヨブ記 27章)
2026/04/24
全能者によって喜びを得
常に神を呼び求めることができるだろうか。
(ヨブ記27章10節)
この章には25章のビルダドに対するヨブの答えが記されています。三人の友人との対話はこの章で終わっています。
「きょうの聖句」は一連の因果応報説によってヨブに悔い改めを迫ってきた友人たちへのヨブの問いかけです。この問いかけは、三人の友人の主張の根底にある彼らの神観とヨブの神観の決定的な違いを示唆しています。またこの問いかけは、ヨブの信仰がどのようなものであったかを示しています。ヨブの信仰は、全能者である神を喜びとし、常に神を呼び求めることのできる生きた信仰でした。
私たちはすでにキリストの贖いによって神の子とされ、「アッバ父よ」と神を呼び求める信仰が与えられています(ロマ8章15、16節)。そればかりか、神との生きた交わりを日々喜ぶことのできる、何にも代えがたい恵みを与えられています。
全能者によって喜ぶ喜びは、一時的でたちまち消えさってしまう地上の喜びとは異なります。また試練によって奪い去られてしまう喜びでもありません。私たちは恵みによって救われ、すでに神の子とされています。ですから、どんな状況の中でも神を喜び、常に神を呼び求めることができるのです。日々その恵みに感謝して歩みたいと願います。
【祈り】
すでに神の子とされていることに感謝します。日々、この信仰に堅く立って歩むことができますように。
創造主を知り崇める幸い(ヨブ記 26章)
2026/04/23
だが、これらは神の道のほんの一端。
神についてわたしたちの聞きえることは
なんと僅かなことか。
その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。
(ヨブ記26章14節)
ビルダドに対するヨブの言葉が2~4節まで語られています。「あなた自身はどんな助けを力のない者に与え、どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。…誰の言葉を取り次いで語っているのか」と問いかけています。他人に忠告したり、他人を助けたりすることなどできない人間の無力さについて語ります。
それに比して、5~13節で、ヨブは神の偉大な創造と保持の御業について語ります。自然科学がヨブの時代よりはるかに発達し、多くの発見がなされてきました。そのなかで、ここで語られていることの正しさが証明されてきましたが「きょうの聖句」が語っているように、それらは神の御業のほんの一端に過ぎません。創造の御業とそれを保持しておられる神は、私たちの認知力と理解力をはるかに超えたお方です。
直前の25章で、ビルダドは、神の御心をすべて理解しているかのように、ヨブを非難しています。しかし、その理解はあまりにも浅い神理解に基づくものでした。
創造主の偉大な御業に触れるとき、被造物である私たちは謙虚にならざるを得ません。私たちが知っていることは、創造の御業のほんの一部です。しかし、それらをとおしてご自身を啓示しておられる神を崇めることができるのは実に大きな恵みです。
【祈り】
創造の御業によって、私たちへの愛を表してくださり、感謝します。
泣く人と共に泣きなさい(ヨブ記 25章)
2026/04/22
どうして、人が神の前に正しくありえよう。
どうして、女から生まれた者が清くありえよう。
(ヨブ記25章4節)
25章にはビルダドのヨブに対する第三回目の短い弁論が記されています。きょうの聖句は、すでにエリファズが4章17節と15章14節で語ったことの繰り返しです。この言葉自体は真理を示しています。しかし、彼が繰り返し、こう主張している背景には、ヨブの苦難は、彼の罪に対する神の刑罰であるという一貫した考え方が根底にあります。
友人たちはヨブを慰めるために遠くから来ました。しかし、かえって彼を追い詰め、彼らの主張を受け入れようとしないヨブを苦しめています。ヨブの苦しみをまったく理解しようしないばかりか、悔い改めを迫り続ける彼の言葉は、ヨブへの冷たい裁きの言葉になってしまっています。
私たちも試練の中で苦しんでいるとき、このような心ない言葉をかけられることがあるかもしれません。しかし、神の御子キリストの贖いの御業を通して救われた私たちは、決してそのように考える必要がないのです。私たち自身、ただ恵みによって救われた者だからこそ、試練のただなかにいる人びとを真の意味で励ますことができるのです。
使徒パウロは次のように勧めています。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ12章15節)。
【祈り】
ただキリストの恵みによって救われたことを覚え、他の人びとの苦しみに寄り添うことができますように。
主に託された働きに励む(ヨブ記 24章)
2026/04/21
なぜ、全能者のもとには
さまざまな時が蓄えられていないのか。
なぜ、神を愛する者が
神の日を見ることができないのか。
(ヨブ記24章1節)
ヨブは心にある葛藤を述べています。「なぜ、神を愛する者が、神の日を見ることができないのか。人は地境を移し、家畜の群れを奪って自分のものとし、みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質草に取る」(1~3節)。ヨブは現実の世界で起きている悪人の暴虐的行為を記します。なぜ、そのような者に神は裁きをくだされないのか、と疑問を抱きます。一般的な因果応報説では理解できない現実を目の当たりにし、心のうちの葛藤を語っています。
現代でもこのような現実を目の当たりにするとき、私たちも苦しくなります。なぜ神は悪行を重ねている者に罰をくだされないのか、とヨブに似た思いを抱くことがあります。
しかし、私たちは御言葉をとおして、すべての者が神の裁きの前に出るときが来ることを知っています。
悪行、暴虐が横行している現実の世界のただなかに目を留めるときでさえ、希望を見出せます。なぜなら、世界の各地にキリストの教会が建てられ、悔い改めの福音が宣べ伝えられているからです。そして事実、その働きをとおして、キリストを信じ、人生を大きく変えられている人びとが起こされ続けているからです。そのことに、確かに神は生きて働いておられることを知り、私たちはその事実に確かな希望を見出せるのです。
【祈り】
主の再臨を待ち望みつつ、託された働きに励むことができますように。
苦難のなかで信頼できる幸い(ヨブ記 23章)
2026/04/20
わたしは暗黒を前にし
目の前には闇が立ちこめているのに
なぜ、滅ぼし尽くされずにいるのか。
(ヨブ記23章17節)
ヨブと友人たちの議論は平行線をたどったままです。この章にはヨブの言葉が記されていますが、神に対する彼の切々たる訴えです。「どうしたら、その方を見いだせるのか。おられるところに行けるのか。その方にわたしの訴えを差し出し、思う存分わたしの言い分を述べたいのに」(3、4節)。
ヨブ記は正しい人ヨブの受けた苦難に関して、その苦難を許された神を、いかに正当化できるかという問いには全く答えていません。
私たちキリスト者も人生の途上でさまざまな苦難を経験します。実際、なぜ自分はそのような苦難を経験しなければならないのか、理解できない場合が多いのではないでしょうか。その答えがあとになってわかる場合もありますが、そうでないこともあります。むしろわからない場合の方が多いのではないでしょうか。
しかし、私たちキリスト者は、神がご自分の愛する独り子を、私たちを永遠の滅びから救うために与えてくださった方であることを知っています。私たちは苦難のただなかで、その事実に安んじることができるのです。そして、目には見えませんが、私たちが苦しんでいるそのただなかに、慰め主なる聖霊が共にいてくださるという確信に立つことができるのです。
【祈り】
苦難に遭うときも、神の子とされていることを覚え、信頼して歩むことができますように。
主が共に歩まれるとき祈りが生まれる(ルカによる福音書 24章13-35節)
2026/04/19
無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
(ルカによる福音書24章29節)
自分も含めて人が人を理解するのはとても難しいことです。まして神を理解することは人の力の及ばないことです。神学において「神はただ神によってのみ開示される」という言葉がありますが、きょうの箇所では、そのことがあてはまります。
エマオの途上にあった二人の弟子は、主イエスを慕い、聖書にも詳しかったと思います。しかし、他の弟子たちと同様に、メシアが苦しまれることは想像していませんでした。イスラエルを解放される方が苦しむはずはないと彼らは考えていたのです。
旧約聖書にはメシアが苦しまれると理解できる箇所がありますが、その読み方を教えてくれる人がいなければ、理解するのは容易ではありません。そして理解はできても、主がこのわたしのために苦しみ、復活されたと信じるのには、主ご自身の働きかけがどうしても必要です。なぜなら私たちの心は閉じやすく、自らの理解できる範囲にとどまってしまいがちだからです。
しかし、この二人の弟子たちのように、私たちには主に祈り求めることが許されています。この弟子たちは先に行こうとする主を引き止めました。それに応えて主イエスは食卓を整えてくださいました。ここに天の祝宴の一端を私たちは見るのです。
【祈り】
主よ。あなたは私たちが気づく前から共に歩んでくださいます。こうして祈れる幸いに感謝いたします。
恥が満ちる世の中で主の憐れみを求める(詩編 123編)
2026/04/18
わたしたちを憐れんでください。主よ、
わたしたちを憐れんでください。
わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。
(詩編123編3節)
きょうの御言葉は、主に憐れみを乞い求めるものです。その憐れみを求める理由は、聖なる神を冒涜する汚れや罪による恥が私たちの周囲を取り囲むように満ちているからです。
私たちはそのような境遇におかれている自覚がどれほどあるでしょうか。商品の宣伝やメディアの喧騒等の中で、私たちの目もいろいろなものに奪われがちです。しかし、詩編123編は、「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます」「御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように、わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ、憐れみを待ちます」と、その目を絶えず、主に注ぐのです。
なぜ主の憐れみが必要なのでしょうか。弱く、罪と悪に誘われやすい堕落した罪人は、救いに至る恵みの賜物を必要としているからです。それは、自分が見ているものに頼るのではなく、「天にいます方」に依り頼む道です。命と希望の源であり、いつも私たちと共におられる主である神、十字架において私たちの罪を清め、天の王座に着かれた主キリストを見つめ続ける祈りの道です。
私たちを憐れんでくださる主にたゆまず祈りをささげて、この世の中で命の福音の光を輝かしましょう。
【祈り】
主よ、私たちを憐れんでください。信仰の創始者また完成者である主イエスを見つめて、祈ります。アーメン
神をより深く知る恵み(ヨブ記 22章)
2026/04/17
だからこそ
あなたの周りには至るところに罠があり
突然の恐れにあなたはおびえる。
(ヨブ記22章10節)
ヨブと友人たちの議論の第三回目のサイクルがここから始まっています。友人たちはヨブが苦難に遭っているのは、彼が犯した罪に対する神の刑罰である、と主張してきました。ヨブとの対立はさらに深まり、彼を深い苦悩に陥らせていきます。ここでエリファズは「あなたは甚だしく悪を行い、限りもなく不正を行ったのではないか」(5節)、「だからこそ、あなたの周りには至るところに罠があり、突然の恐れにあなたはおびえる」(10節)と言っています。
しかし、ヨブの苦難は神の許しのもとで、サタンによって与えられたものでした(1、2章参照)。
私たちも人生の中でさまざまな苦難に遭います。そのようなとき、エリファズの言葉のようなネガティブな思いが心に浮かび、不安と恐れで一杯になることがあります。しかし、神の御子キリストの贖いによってすでに罪を赦され神の子とされた私たちは、決してそのように考える必要がないのです。
ヨブは最終的に試練を通して神をより深く知るという恵みを与えられました(42章5節)。私たちも人生の途上で思いがけない苦難に遭遇することがあります。しかしそれらを通して、私たちもまた、より深く神を知るという恵みを与えられるのです。
【祈り】
苦難に遭うときも、神の子とされていることを覚え、信頼して歩むことができますように。
慄然とし身震いしたとしても(ヨブ記 21章)
2026/04/16
わたし自身、これを思うと慄然とし
身震いが止まらない。
(ヨブ記21章6節)
今までの議論で友人たちに共通したことは、要するに悪人は富み栄えても、必ず神の裁きに遭って滅亡するということです。まさにこの人生観に対してヨブは異議を唱えます。現実はむしろ悪人の方が繁栄し富み栄えながら(7~12節)、「幸せに人生を送り、安らかに陰府に赴く」(13節)のです。
こうしてヨブは、友人たちの因果応報的な原理が現実には破綻していることを述べて、彼らの言葉が「空しい言葉」にすぎないと痛烈に批判しています(34節)。ヨブが神に激しく問い続けてきたのは、まさにこの矛盾でした。だからこそ、ヨブ自身「慄然とし、身震いが止まらない」と語るほどです。
ヨブも今まで、友人たちのように、神に従うならば祝福されることを信じていたと思います。しかし、そのヨブが苦難に見舞われました。それによってヨブは、これまで築いてきた理解が、その根底から崩れ去っているのを覚えて、慄然としながら、苦悩しているのです。苦悩に直面した時、今まで自分が構築してきた神理解が崩れてしまうことがあるかもしれません。それでも、この書物の最後に神はヨブに語りかけます。たとえ神に苦しめられていると感じたとしても、神は見捨ててはおられない。それがヨブ記のメッセージです。
【祈り】
わたしの常識が崩れ去ったとしても、あなたは私と共にいてください。
機械的なツォファルの信仰観(ヨブ記 20章)
2026/04/15
神に逆らう者が神から受ける分
神の命令による嗣業はこれだ。
(ヨブ記20章29節)
20章は友人ツォファルの二回目の発言です。しかし、このヨブへの反論も、先の二人と同じ内容で、神に逆らう悪人の悲惨な末路を繰り返すことでヨブの改心を求めるだけのものでした。29節で「神に逆らう者が神から受ける分」と述べています。ツォファルも、ヨブをはじめから悪人と断定し、断罪するのみです。ツォファルも他の友人たちと同様、「因果応報」の理解に固執しています。神に逆らったからこそヨブは苦しんでいるという理解から抜け出せません。
ヨブは神に従いながらも苦しめられていることに悩み、そのことを神に訴えているのに、ツォファルはそのヨブの悩みと訴えの根源が見えていません。因果応報の原理をただ機械的にヨブに適用して、目に見える結果からヨブを断罪するだけでした。苦しみに遭っている現実から判断して、それはヨブに対する神の裁きであり、ヨブには隠された罪があると断罪するばかりです。ヨブの真実の苦悩を見ようとしない彼らの信仰観は、実に機械的・原理的なもので、非人格的であると思います。
いくら原理的に自分の論理を相手の状況に当てはめても、本当に苦しんでいる者には何も響きません。苦しむ者に対する姿勢ということもヨブ記は反面教師的に私たちに教えていると思います。
【祈り】
主よ。隣人の真実の苦悩を心から理解することができますように。
わたしを贖う方は生きている(ヨブ記 19章)
2026/04/14
わたしは知っている
わたしを贖う方は生きておられ
ついには塵の上に立たれるであろう。
(ヨブ記19章25節)
「どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、言葉をもってわたしを打ち砕くのか」(2節)。呻くようにヨブは語り始めています。友人たちの言葉はヨブをひどく苦しめました。友人たちは、苦しみの原因をヨブ自身に負わせようとします。
しかし、今の苦しみはヨブ自身に原因があるのではなく、神が義を曲げられたという理解にヨブは立っています(6節)。信仰者として挑戦的な発言ですが、ヨブにはそうとしか思えません。彼は誠実に神の前で歩んできたからです。神に裁かれることは何もしていない。では、なぜ神は自分を苦しめるのか。ヨブはこの答えを切実に求めています。7節以下から、ヨブに対する神の不当な扱いが列挙されています。皮膚病を抱え、知人、友人、家族、そして神にすらも捨てられたヨブはかろうじて「わたしは生き延びている」と語ります(20節)。どこからも見捨てられ、誰からも嫌われた中で、彼が仰いだのは、「贖い主」なのでした。「わたしを贖う方は生きておられ」ると(25節)。
ヨブは、自分と神の間を執り成す贖い主の存在を求めています。彼の望みはここにしかありません。私たちも、私たちの望みは「贖い主」しかおられないことを強く信じたいと願います。
【祈り】
神さま。たとえ打ちのめされたとしても、「贖い主」であるイエスさまがいてくださることに感謝します。
苦しみは神の呪いの結果なのか(ヨブ記 18章)
2026/04/13
神に逆らう者の灯はやがて消え
その火の炎はもはや輝かず
その天幕の灯は暗黒となり
彼を照らす光は消える。
(ヨブ記18章5節~6節)
18章は、友人ビルダドの二回目の発言です。ビルダドは「話し合おう」(2節)と提案しますが、初めからヨブを理解しようとはせず、ヨブが彼らの言葉を受け入れることを求めています。その後に続く言葉は、もはや勧告や励ましではなく、ヨブに対する一方的な断罪と非難です。ビルダドは、ヨブを「怒りによって自らを引き裂く者」として、ヨブの苦しみが自業自得のものであると決めつけます。さらに、世界が自分のために存在するように考えているとし(4節)、「神に逆らう者」(5節)として、ヨブに対する呪いを語ります。
5~21節に描かれる「神に逆らう者」の運命は、旧約聖書が語る一つの視点です。しかし、ヨブが問うていることは、人間の歴史とそこで起こり来ることは、そのように単純なものではないということです。友人たちの原理に立つならば、この地上で苦難に遭うことは、災い以外のなにものでもありませんでした。
しかし、苦しみは神の呪いであるという図式で簡単に測ることはできません。現実は、むしろ、悪しき者が富み栄え、正しい者は苦しめられるのです。ヨブが問うのは、まさにこのことです。理不尽と思えるような出来事の中で、私たちはどのように神と向かい合うことができるのか。そのことをヨブ記は教えています。
【祈り】
理不尽と思えるような状況の中でも、あなたを仰がせてください。
鍵をかける私たちと平和を与える主(ヨハネによる福音書 20章19-31節)
2026/04/12
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
(ヨハネによる福音書20章26節)
主イエスは十字架で処刑されました。今度は自分たちが捕らえられると弟子たちは思っていたかもしれません。ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。
この弟子たちの姿は、私たちの姿と重なります。私たちも恐れや不安を抱えていると、少しでも安心できると思う場所に身を隠します。それは安全を確保するためにも必要なことです。しかし、扉が閉じられてしばらくの時間が過ぎると、恐れや不安が増して、だんだんと大きくなることがあります。そしてそれに押しつぶされるように息ができなくなるような思いを抱えてしまいます。
身動きが取れない、あるいはトマスのように見るものしか信じられないというのは、誰もが抱え得る、人の惨めさなのかもしれません。
この箇所で、「鍵をかける」、「イエスが来て真ん中に立つ」、そして「あなたがたに平和があるように」という言葉が二回繰り返されています。この繰り返しは、私たちの日常と礼拝のリズムのようです。主の平和を礼拝でいただき、赦しへと生き、傷つき疲れ、また復活の主の平和をいただきに礼拝に帰る。そのリズムの中で、時に躓き、立ち止まりながらも、何度も平和の主はその御手で私たちを支え続けてくださるのです。
【祈り】
平和の主よ。すぐに鍵をかけてしまいやすい私たちです。どうぞ聖霊を注いで、心を開かせてください。
主の平和を互いに求めつつ祝福を祈る(詩編 122編)
2026/04/11
わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。
「あなたのうちに平和があるように。」
(詩編122編8節)
きょうの御言葉は、主イエスが、十字架の上で成し遂げられた贖いの御業を信じる者たちにとっては、神との交わりを与えられた恵みと平安を覚えて、お互いに、平和と祝福を祈り合う祈りの言葉です。
主イエス御自身、墓から三日目に復活された、一週の初めの日の夕方、ユダヤ人を畏れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に来て立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。そして、十字架の上で受けた手とわき腹とをお見せになり、弟子たちは主を見て喜んだのです。そのとき主イエスは、重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。そう言って、弟子たちに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」(ヨハ20章19~22節)。
「主の家に行こう」(1節)との呼びかけは、復活の主イエスを証しする教会への招きの言葉です。この教会において、今も、天上で父である神の王座に着いておられるキリストの主権が告白され、主の臨在が、礼拝において純正な礼拝と説教、洗礼式と聖餐式、また、教会訓練において証しされます。主の伝道に共に励みつつ。
【祈り】
私たちの主よ、あなたが、命の言葉の上に建てられる教会に、あなたの平和を求めます。アーメン
神御自身があなたがたを強め力づける(ペトロの手紙一 5章)
2026/04/10
しかし、あらゆる恵みの源である神…が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。
(ペトロの手紙一5章10節)
ペトロの手紙一は、締めくくりで、「身を慎んで目を覚ましていなさい」と勧めています(8節)。4章7節の「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」を思い起こすことができます。目を覚ましているとは、祈ることと一つです。祈ることによって、私たちは目を覚まして主を待ち望む者とされます。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」とも教えられます(9節)。誘惑をしりぞけてこそ信仰に固く踏みとどまることができるからです。
しかし、誘惑に弱い私たちが、いったいどうして悪魔に抵抗し、信仰に固くとどまることができるのでしょうか。そう思うところで、こう言われます。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」。
私たちの信仰の戦いは、私たち自身の戦いであると同時に、神が戦ってくださるものです。信仰に固く立とうとする私たちを支える神の御業があるのです。それゆえ、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるから」と約束されます(7節)。神の約束が私たちの力です。
【祈り】
主よ、あなたの約束への信頼に固く立たせてください。
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