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リジョイス聖書日課

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This podcast has
1966 episodes
Language
Japanese
Date created
2019/09/24
Latest episode
2026/10/31
Average duration
-
Release period
1 days

Description

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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信仰のみ聖書のみ恵みのみ(テモテへの手紙二 3章14-17節)
2026/10/31
この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。 (テモテへの手紙二3章15節) 1517年10月31日、マルティン・ルターが「九十五箇条の提題」を提示したことから、宗教改革が始まったと伝えられています。 九十五箇条の提題の第一条にこうあります。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔改めよ…』といわれたとき、彼は信者の全生活が悔改めであることを望まれたのである」(『原典宗教改革史』)。悔い改めとは、御言葉によって神に立ち帰ることです。主イエスへの信仰によって心を神に向けることで、恵みとして罪の赦しが与えられます。 当時の教会では、教会が行う告解の秘蹟によって罪の赦しが与えられると教えられていました。そのため、事実上、聖書を超える権威が教会に認められていて、それが教会の腐敗の原因にもなっていました。宗教改革者たちは、聖書の権威に正しく服すよう、教会の改革に努めたのです。 宗教改革を受け継ぐとは、神の言葉によって絶えず改革され続けることです。私たちの周りには、経済力や武力が力であるとの言説があふれています。教会もいつの間にかその影響を受けてしまいます。私たちは、自分が誤りに陥る可能性のあるものであることを自戒し、神の御言葉のもとに自らを立たせます。聖書にこそ、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵があるからです。 【祈り】 あなたの御言葉を正しく理解し、心から従うことができますように。
裁きの谷と主の民の避けどころ(ヨエル書 4章)
2026/10/30
あなたたちは知るようになる。 わたしがあなたたちの神なる主であり わが聖なる山シオンに住む者であることを。 (ヨエル書4章17節) 主の民の繁栄を回復するその日、主は諸国の民をすべて集めて、「ヨシャファト(主の裁き)の谷」に連れていき、そこで裁かれる、とヨエルは告げます。歴史を振り返ると、力ある者が一方的な暴力によって勝利を手にしているように見えることがあります。しかし、主は苦しめられたご自分の民の叫びを決してお忘れにはなりません。捕囚による離散を経験した主の民にとって、それは大きな慰めでした。 主が裁きを行われるとき、「天も地も震える」とヨエルは記します(16節)。しかし同時に、主はご自分の民の避けどころとなられます。「主はシオンに住まわれる」という言葉で、ヨエル書全体は結ばれます(21節)。主の民にとって、主の日は神がその民と共におられる日であり、主の恵みが豊かに回復される姿が描かれます。 「主はシオンに住まわれる」という希望は、主イエス・キリストにおいて実現します。主はもはや神殿だけに住まわれるお方ではなく、聖霊によって主イエスを信じる者たちの中に住まわれることを、使徒ペトロは語りました(使2章)。それゆえ、主の日は恐れの日ではなく、主が共にいてくださる希望の日なのです。主の日の礼拝において、私たちはこの希望が示されているのです。 【祈り】 主の日に、私たちの避けどころとして、礼拝の中で希望を指し示してくださり、感謝いたします。
七十周年宣言 人を生かす命の道、神の愛(出エジプト記 20章12-13節)
2026/10/29
「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。」 (出エジプト記20章12節~13節) 2011年に発生した東日本大震災と、それに伴う原発事故から五年後の2016年、「福音に生きる教会」と「善き生活」から成る「七十周年記念宣言」が告白されました。その時代的雰囲気を次の一文が端的に言い表しています。「それまで隠蔽されていたこの国と社会の深層を明るみに出すと同時に、命の犠牲の上に築いてきた近代文明社会の在り方そのものを根本的に問う出来事になった」。 その責任を教会もまた担うという決意のもと、「宣言」は全体を通して、「命」を語ります。その「命」を希求する言葉を聞いてみましょう。「真の羊飼いであるキリストは、あらゆる人を命の福音へと招いておられる」。「御父の心そのものである神の掟は、人を真に生かす命の道であり、造り主の愛の意志である」。「命はすべて神のものである。消え入りそうな人の命を救い、万物を更新するために主は来臨された。生きとし生けるものはみな、神の愛によってこそ光り輝く」。「各々に与えられた召しと賜物にしたがって主に仕え、完成をめざして共に命の道を歩み続けよう」。 人間を酷使し、命を軽んじる時代のなかになおあって、命を育む神の安息に生き、その回復のために働く教会の使命を今一度、覚えます。 【祈り】 「マラナ・タ(主よ、来てください)!ここに、わたしたちの生きる力と喜びは湧き上がる。栄光がただ神にあるように!」
主の名を呼ぶすべての者に注がれる霊(ヨエル書 3章)
2026/10/28
しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。 (ヨエル書3章5節) 預言者ヨエルは、悔い改めた神の民の回復の、その後についても語ります。すなわち神は、ただその民を慰めるだけではなく、ご自身に敵対する悪をそのままにされず、正しく向き合われるのです。 主の裁きの日、主はすべての人に聖霊が注がれることを約束されました。主の救いの御業には、何の分け隔てもありません。男女の差も、身分の差もなく、虐げられ、苦しみの中にある人びとにも、主は聖霊を注がれるのです。 主の日に現れるしるしを、ヨエルは「血と火と煙の柱である」と示します(3節)。人の血が流され、火が燃え上がり、煙が立ちのぼるような出来事。それは神がこの世界に沈黙しておられず、歴史の中に介入されるしるしとして語られています。しかし、「大いなる恐るべき日」と示されるその日に、主は同時に「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」と、神の民に対する救いの道を示されます。 聖霊に満たされた使徒ペトロは、この御言葉を引用し、主イエス・キリストの御業を証ししました(使2章17~21節)。主の日は、主の御名を呼ぶ者にとって、恐れの日ではなく、恵みの日となるのです。だからこそ、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」なのです(2コリ6章2節)。 【祈り】 主よ、主イエス・キリストを通して、恵みの時、救いの日の喜びのうちに、私たちを生かしてください。
主なる神の慈しみに立ち帰る(ヨエル書 2章)
2026/10/27
あなたたちの神、主に立ち帰れ。 主は恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに富み くだした災いを悔いられるからだ。 (ヨエル書2章13節) いなごや干ばつの災いのみならず、敵軍による破壊によって国が荒廃する現実を前に、預言者ヨエルは主の日の到来を「闇と暗黒の日」と言い表します(2節)。平和の秩序が損なわれ、不正や悪がはびこる時代にあって、私たちは、不安と恐れにさいなまれます。災いの中でも、主は主権をもって御業を実現されます。 しかし、恐れおののく主の民に、ヨエルは「今こそ、主に立ち帰れ」と呼びかけ、心からの悔い改めを、主の民に呼びかけるのです。打ち砕かれ、悔いる心を主は侮られません(詩51編19節)。 ヨエルは主が恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富んでおられることを主の民に示します。私たちが立ち帰るのは、神の慈しみです。神は、ご自分に心を向けて嘆く民を深く憐れまれました(18節)。そして救いのための雨と恵みの雨を増し加えられます(23節)。罪の赦しという恵みを受け取った主の民は、主への賛美へと促されます。 主なる神の慈しみに立ち帰る者に与えられるのは、主の御前に罪赦された者として生きる喜びです。十字架の光に照らされて、主の慈しみの中を歩んでいることを深く覚えたいと願います。 【祈り】 闇と暗黒の時代にあっても、慈しみと憐れみをもって臨まれるあなたのご支配に感謝いたします。
主の裁きが近づくときに天を仰ぐ(ヨエル書 1章)
2026/10/26
ああ、恐るべき日よ 主の日が近づく。 全能者による破滅の日が来る。 (ヨエル書1章15節) 思いがけない失敗や行き詰まりを覚えるときに、「天を仰ぐ」と表現することがあります。当たり前と思っていた日常生活や楽しみが、ある日突然失われる。そんなどうしようもない状況に直面したとき、私たちは天を仰ぎます。 「ヤハウェは神」を意味する名の預言者ヨエルは、未曾有の国難を前に、人びとが天を仰いで嘆く姿を描きます。いなごと干ばつという国の壊滅的な状況を、ヨエルは来たるべき「主の裁きの日」の前触れとしてとらえます。人の力を超えた災いを前に、私たちは無力です。主の裁きを前に、祭司たちは主の民に、神殿に集まり、神に立ち帰り、主に嘆きの祈りをささげるよう、呼びかけます(14節)。 全能者である主の裁きを前に、罪ある私たちは、憐れみを乞うほかありません。しかし、キリスト・イエスに結ばれている者にとって、主の日はもはや恐怖の日ではなく、救いの日です(ロマ8章1節)。十字架の御業によって、罪の赦しが成し遂げられたからです。天を仰いでささげられた嘆きの祈りに、主は確かに耳を傾けられます(詩116編参照)。 目まぐるしく変化する時代にあって、御言葉は主に立ち帰るよう、きょうも呼びかけています。 【祈り】 主よ、天を仰ぎ祈る私たちに、十字架によって応えてくださり、感謝いたします。
最も重要な掟神を愛し隣人を愛する(マタイによる福音書 22章34-46節)
2026/10/25
「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 (マタイによる福音書22章40節) ある律法の専門家が、主イエスを試そうとして尋ねました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。主イエスはこう言われました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(37~40節)。申命記6章5節とレビ記19章18節が組み合わせられて、律法全体と預言者、すなわち聖書全体がこの二つの掟に基づいていると言われます。私たちは、聖書の教えを神への愛と隣人への愛を基とする教えとして理解します。また、神への愛のない隣人愛はなく、隣人愛のない神への愛もないと言えるでしょう。 主イエスは、私たちの主として、ご自分を十字架でささげて、完全な愛を示し、この最も重要な掟を完全に満たしてくださいました。その証しとして、御父は主イエスを栄光の体で復活させられました。そして、天におられる主イエスは、今や聖霊によって私たちの心にご自分の愛を注いでくださり、私たちが神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することができるようにしてくださるのです。愛のない私たちが愛することができるとは、ただ神の恵みにほかなりません。 【祈り】 主イエスよ。私たちが神を愛し、自分を愛し、隣人を愛せますように。
神よあなたはこんなところにも!(詩編 139編)
2026/10/24
陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。 (詩編139編8節) 私たちは常に喜びに溢れているわけではありません。闇に紛れてしまいたいと思うときもあり、神の御顔から隠れようとするときもあります。 「陰府」とは、死者が辿り着く場所、光も届かない暗闇が支配する場所、あるいは絶望が支配する場所であり、私たちが考えうる、神から最も遠く離れた場所です。一切の希望を失い、何のやる気もおきず、ただ横たわっているような時を過ごすこともあるでしょう。それは、一見すると、神への純粋で従順な信仰からは全くかけ離れたように見える状態です。 ところが、詩人は「見よ、あなたはそこにいます!」と言うのです。どこに隠れようとも、もう逃げ場はないという、神の裁きに対する恐怖ではありません。神の赦しの恵みと憐れみが、そんなところでも私たちを待ち受けていた!と驚くのです。 神の恵みはこんなところには届かないだろうと思ってしまうことがあるかもしれません。しかし、従順ではないときにも、神を見失い、絶望しているときにも、まさにその場所で、神は私たちを憐れみと赦しの恵みをもって待っていてくださいます。陰府にさえも降られた主イエスをとおして(使徒信条)、神はそこに横たわる私たちをも、赦しの恵みへと招いておられます。 【祈り】 私たちの内にある深い闇を光に変えるほどの恵みをもって待っておられるあなたに目が開かれますように。
神のまなざしに生きる(エズラ記 5章)
2026/10/23
しかし、神の目がユダの長老たちの上に注がれていたので、彼らは建築を妨げることができず、…王の返書が送られてくるのを待った。 (エズラ記5章5節) エズラ記5章は、長く中断していた神殿再建が、再び動き出す場面を描いています。 まず彼らに与えられたのは、神の言葉でした。預言者ハガイとゼカリヤが語った神の言葉によって、ゼルバベルとイエシュアは立ち上がり、再び神殿の工事を始めました(1、2節)。このように、神殿再建の力は、神の語りかけから生まれました。 しかし、再建の働きはすぐに順調に進んだわけではありません。地方総督が現れ、本当に再建の許可があるのかと問いただしました(3、4節)。しかし、それでも工事は止まりません。「神の目がユダの長老たちの上に注がれていた」からです(5節)。人びとから疑いの目が向けられているそのときにも、神ご自身が彼らの働きを見守り、支えておられたのです。 工事が長く中断していた間も、神は沈黙しておられたのではなく、再び働きが進むように備えておられました。そして時が満ちて、作業を再開するとき、神のまなざしは彼らの上に確かに注がれていたのです。 私たちもまた、何かをやり直そうとするときには、自分の思いだけに頼るのではなく、まず神の言葉に耳を傾けたいものです。そして同時に、神の目が私たちの上に注がれていることを覚えましょう。 【祈り】 きょうもあなたの御言葉に聞き従い、あなたのまなざしの中を生きる者とならせてください。
中断されても神の時を待ち望む(エズラ記 4章)
2026/10/22
そのときから、エルサレムの神殿の工事は中断されたまま、ペルシアの王ダレイオスの治世第二年にまで及んだ。 (エズラ記4章24節) エズラ記4章は、神殿再建という主のための働きが妨げられ、中断に至る出来事を描いています。 周囲の人びとが協力を申し出たとき、指導者たちはそれを丁重に断りました(3節)。これは多神教的な礼拝を避け、イスラエルの神、主だけにささげられる純粋な礼拝を守るためでした。しかしその結果、妨害が起こり、ついには工事が停止させられてしまいました。 このように、人びとの反対によって工事が中断されることは、外から見れば神の民の敗北に思われるかもしれません。しかし、神の御心にかなった働きであっても、中断が起こることがあります。物事が思うように進まないからといって、それが神の御心でないとは限りません。 このことは、イエス・キリストの十字架を思い起こさせます。主イエスは人びとの反対によって十字架につけられ、そのときすべてが終わったかのように見えました。しかし主は、ご自分が苦しみを受けて殺され、三日目によみがえることを前もって語っておられました(マコ8章31節)。十字架は敗北ではなく、神のご計画による復活の栄光への道でした。 主は沈黙しているように見えるときにも働いておられ、やがて御心を成し遂げてくださいます。 【祈り】 苦難のときこそ、祈りと御言葉に立ち帰り、あなたの時を待ち望む者とならせてください。
御言葉に従って歩み出す(エズラ記 3章)
2026/10/21
第七の月の一日に、彼らは主に焼き尽くす献げ物をささげ始めた。しかし、主の神殿の基礎はまだ据えられていなかった。 (エズラ記3章6節) 捕囚から帰還した指導者たちは、神の民を導く上で大切な順序をよくわきまえていました。彼らはまず祭壇を築くことから始めたのです。神殿の建築を急ぐのではなく、何よりも礼拝を第一に据えました。彼らが祭壇を優先したのは、神の民であることの証が建物の立派さにあるのではなく、主に向かって礼拝することそのものにあるからです。 また指導者たちは、民を導く方法においても確かな基準をもっていました。それは、神の律法に従うことです(2、4節)。主は御言葉によって道筋を示され、民はその御言葉に従って歩みました。エズラ記3章は、共同体を立て直していく上での拠り所が神の言葉そのものであることを、はっきりと示しています。 やがて基礎が据えられたとき、民は声を合わせて賛美しました。「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」(11節)。彼らがここで確かめたことは、主の恵みは揺らぐことなく、かつて主に背いた自分たちにさえ、今なお注がれているという事実です。 私たちもまた、まず神に向かうところから回復が始まります。揺らぐことのない主の恵みに信頼して御言葉に従い、礼拝を生活の中心に据えて歩み出していきたいものです。 【祈り】 神よ、揺らぐことのないあなたの恵みに信頼し、御言葉に従って歩む心をお与えください。
きょうも神との生きた交わりを(エズラ記 2章)
2026/10/20
祭司、レビ人、民の一部、詠唱者、門衛、神殿の使用人はそれぞれ自分たちの町に住んだ。イスラエル人は皆それぞれ、自分たちの町に住んだ。 (エズラ記2章70節) 主がキュロス王と民の心を動かし、バビロンからの帰還の道が開かれました。2章では、帰還した人びとの名簿が記されています。捕囚を経験した人びとは、土地を失い、遠くへ移されても、なお神の民であり続けました。そして今、神に心を動かされて、彼らはエルサレムの神殿を建てるために上って行きます。 この名簿をよく見ると、特に丁寧に記されているのが、祭司やレビ人、詠唱者、門衛など、礼拝に関わる人びとです。また、系図を証明できない者については、特に祭司の場合、記録が確認されるまで務めを禁じられました(59~63節)。ここからわかることは、帰還の目的が単なる生活再建ではなく、何よりも礼拝の回復にあったということです。それは、失われていた神との交わりがもう一度取り戻されることにほかなりません。 また、最初に帰還した人たちの総数は四万二千三百六十人でした(64節)。ここには多くの人の名前が書き留められています。これは、神がご自分の民を一人残らず覚えておられることのしるしです。捕囚という大きな苦難を経験した人びとも、神の御前では忘れられていませんでした。同じように、神は今も、私たち一人ひとりの名を知っておられます。神は私たちの名を呼び、ご自分との交わりに招いておられます。 【祈り】 きょうもあなたとの生きた交わりを喜ぶ者とならせてください。
心を動かす神の働きに期待して(エズラ記 1章)
2026/10/19
主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。 (エズラ記1章1節) エズラ記は、神の民がバビロン捕囚から戻り、エルサレム神殿を再建する様子を描いています。礼拝の場として神殿が再建されるとともに、荒廃した民の心に秩序が回復されようとしています。神への礼拝が新しくされるのです。 そのきっかけは、神が「ペルシアの王キュロスの心を動かされた」ことにありました。つまり、捕囚からの帰還は決して偶然の出来事ではなかったということです。歴史の主導権を握る神が、異教の王の心をも動かされたのです。 また、神は王だけでなく民の心をも動かされました。「神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした」のです(5節)。ここには、神が民の心を奮い立たせ、民が応答する様子が記されています。 回復の始まりは、神が人の心に触れてくださることにあります。かつて神がキュロス王の心を動かし、また多くの民の心を奮い立たせて帰還の歩みを起こされたように、神は今もなお、私たちの心に働きかけてくださるお方です。ですから、私たちは、自分の乏しさに目を向けて諦めるのではなく、神が心を動かしてくださることに期待して、きょうも神の御前に自分を置きたいと願います。 【祈り】 神よ、わたしの心に触れて、奮い立たせてください。あなたの御心のために、わたしを用いてください。
神のものは神に返しなさい(マタイによる福音書 22章15-22節)
2026/10/18
彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 (マタイによる福音書22章21節) ファリサイ派の人びとは、その弟子たちをヘロデ派の人びとと一緒に主イエスのところに遣わして尋ねさせます。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。主イエスが「律法に適っている」と答えたら、群衆は主イエスに失望して去っていくでしょう。すると、ファリサイ派の人びとは主イエスを捕らえることができます。もし主イエスが「律法に適っていない」と答えたら、ヘロデ派の人びとが主イエスをローマ皇帝に背く者として訴えることができます。 主イエスは彼らの悪意に気づいて、税金に納めるお金を見せるように言い、「これは、だれの肖像と銘か」と尋ねます。彼らが「皇帝のものです」と答えると、主イエスはこう言われます。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。 デナリオン銀貨には皇帝の肖像が刻まれていました。それに対して、人間は神に似せて造られ、神のかたちが刻まれています。皇帝には地上の事柄の権威が委ねられています。けれども、人間を真実に支配するのは生けるまことの神です。主イエスは、皇帝の権威は相対的であり、神の権威が絶対的であることを示されました。私たちには、神のために生きる人生の幸いが与えられているのです。 【祈り】 神よ、あなたのものである私たち人間が、あなたのために生きることができますように。
悔い改めようとはしなかった(ヨハネの黙示録 16章)
2026/10/17
人間は、激しい熱で焼かれ、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった。 (ヨハネの黙示録16章9節) 神の怒りがその極みに達し、最後の災いが始まりました(15章)。最後の災いを前に、人びとは、どう振る舞ったのでしょうか。黙示録は、「この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった」、「天の神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった」(11節)と繰り返し語ります。最後の災いに至っても、人びとはなお悔い改めず、頑なに神に背き続けるのです。悔い改めないだけではありません。彼らは、神に戦いを挑もうとさえします(16節)。しかし、小羊の血のゆえに、勝負はすでについています。 最後の災いに至っても、自らの罪に気づけず、主に立ち帰ることもできない。私たちも、その一人でした。しかし主は、そういう私たちを憐れんでくださいました。主イエスが、私たちの罪をすべて十字架で負ってくださいました。それだけではありません。自分の罪に気づかせ、十字架がこのわたしのためだったと、主イエスへの信仰を与え、滅びから救い出してくださいました。すべて主の御業です(エフェ2章1~10節)。 あらためて心に刻みたいのです。わたしのために父、子、聖霊なる神が成してくださった御業を。その恵みにきょうも生かされていることを。 【祈り】 主よ、十字架によって与えられたありえない恵みに感謝し、あなたを礼拝し、賛美する者としてください。

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